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備忘録

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日常をドラマチックに。ノンフィクションな小説に。あれこれ考えたことを、思いついたままに、綴ります。
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幸先を魅にいこう

この文章はある種の恋文でもあるし、激励の言葉でも、激白や暴露でも、ときには罵倒や提案でもある。ただその根底には熱情、強い関心があり、変え難いなんらかの、小さなきっかけのような、記憶のカケラによって陽動されている。 加えて、うっすらと遠い記憶が手の中にあり、コンセプチュアルな枠内に向けて語っている。 簡単にいえば、小学生がバレンタインに出すレターのようなもので、曖昧でそれで良しとされるものだ。 --- 仕組まれた偶然に、神の悪戯に、ただ交差する情の狭間で踊っていたに過ぎない

手をとり,空を観あげる

ただ静寂に,ただ平凡に,その場にあった何かを拾い上げ,そっと元に戻した。もっとも誠実な行いは,考えないことだと思っていたのに。そのものは,何者かに拾い上げられ,何者かによって何もなかったかのように元に戻された。 突然の豪雨が雲を動かし,宙に舞う何かを蹴落とす。 朝からバタついてしまった。眠る前に聴いた話は,どこかにある世界のことで,なんだか忘れちゃいけない気がして,頭のどこかで覚えていた。指で描いたデザインは,きっと夢物語ではなくて,ハッキリとした,ビビットなものだったん

かっぴらいた無情な瞳孔

そうよね。そうだよね。 現在は過去の累積でしかないけれど,過去に縛られる必要もないよねと思う。だって,ひとって変わって行くものでしょ。そうだよね?そうだよね。 こうやりたい,という意志があって,それをなんらかで表して,自分で満足して,たまーに他者に評される。そんな形で社会との接点をつくっていく。現在は意志と表象の世界だ。 現在は過去の累積でしかない。だけど,意志と表象は,過去に縛れる必要も義理も,責務もない。素直な意志と素直な表象が,人間味があって面白い。 私生活の

影に溶かされた憂い

朝起きるのは遅かった気がする。無邪気なスリルを**充実**と呼べたのは,そこまで遠くない記憶なんだろうと思う。それらを辛いスパイスと思え,甘い日々が別れを告げた感覚を数年感じている。漠然とした秘密となんらかが行き交う街にあって,そこまで何を願うのか,あまりにも複雑すぎて捉えきれていない。 というわけで朝起きるのは遅かった。というのも深夜まで呆けていて,順当に眠りについていただけな気もする。ボケーっと天井を眺めて,幾何学模様を描写する行動をとっていた記憶がうっすらとある。なん

期待とか,失望とか

君に掛けた期待とか,失望とか,そんなものはとうに忘れている。いつしか,同じだけ,君も私に対して思っているのではないかと,それこそ淡い期待や,そうでもないだろう,勝手な失望を繰り返す。 そのまま何も変わることはなく,運命のまま縋るだけで,それに安堵している。なぜ,明日に対峙せず,昨日を捨てないのか。そんな,窮屈すぎる心から,正気も狂気も捨て去って,脈略のない会話をしている。 大抵,今の私では手を伸ばしても,許されることも,見つけられることもない。 このまま変化を続けて,世

re-doされたそれぞれ

柔らかく,動きのある,時間の流れを感じる.一方で頑固に,一切の動きのない,精神の静止を,いま感じている. 何者かになりたい,何者でもない人々が,いくらre-do,つまり繰り返し,何かをしても,きっと,何者かにはなれないんだろうと思う. 決して,努力は正しくない.それを見定めて,見極めて,評価できるほど,社会は器用なことはできない.であるから,(極めて一般的で精神的な観測では)社会に対しては,真っ向から対峙して良いのだと思う. 片や,自意識も,決して正確ではない.大抵の自己

投影された使い捨ての憂い

目に見えるのは、一部。そう思う。故・見田宗介先生は「石を投げて当たらないこと」と表現したが、大抵の場合、重要なものほど視えず、表現しにくいものだ。 その心は、曖昧であることが現時点での結論である場合、曖昧であるべき場合、結論は曖昧ではないが表現できない場合、表現すべきではない場合、大抵は4つのシナリオだろう。要は、バランス、グラデーションが認められている。 私はグラデーションが好きで、曖昧なものを許容、それをそれとしてあるべきだと思う。一方でハッキリしたものは効率化という

数人のわたしが緩やかに死んでいく

きっと憶測に過ぎないが,現世において,わたしが徐々に,特に緩やかに死んでいく気がしている。痛みに慣れ,呼吸だけが焦る。気づかないふりをして,独りでいる。 徐々に私は希薄化され,世にマッチしていく。ぎゅっと手を繋いだワタシ達は,喜怒哀楽を共有するも,なんらか,一瞬に手が離れ,思いも寄らずに消えていく。  あの時は楽しかった。私が語り,それを笑う。世に貶される声は,わたしがかき消してくれた。彩られたビビットな世だった。何が正しいのか,それがそこにはあり,その多くは私が正しかったん

who exist for what...

このところは装飾品を手足につけることにハマっている。右腕には貰ったブレスを,左小指にはシグネットリングを,といった具合だ。これらはつまり,私が私たりえる理由を他者に表明する意味がある。 私には私なりの世界が存在するし,他者にとっての世界はどうでもよい。目に見えるものが全てだと考えているし,それでいて世界を解った気になるのは馬鹿げていると知っている。 我々の認知には,ある一定以上の制限がかかっている。それぞれの収集範囲,検証レヴェル,分析手法が異なるのだから,世界という概念の

未来に手を差し伸べる勇気を持つこと

煉瓦には大いなる力がある。なんだが歴史を感じることができるし,美しいと感じる。そう思う。 「どうも軽はずみには『知っている』とは言えないの。きっとね,そうね,でも知っていることもあるのよ。私を大切に思っていることも知っている,言わないけれど。つまらないこだわりを持っていることも知っている。何より笑っていることがいちばん強いことを知っている」某氏はいう 執着と情の差はどこにあるのだろう。愛を与えて未練なく捨て去ってほしい。偶然を仕込んで,墜落していく,アダムとイヴ。まぁ,こ

who says what...

不要な考えが脳内を占拠する。少しばかり頭が良くなりすぎた。脳はそれを処理しきれずにいる。 グラデーションが好きだった。何者でもない,矛盾して,無定義な状態が好ましい。他方で何者にでもなれて,体系立てられ,頑なに定義を語っている。ゼロとでも無限大とでも表象しうる言葉が好きだった。 その吸い込まれる魅力のなかには,孤独と自由が共存していて,自らが歩く足音だけが,激しく響く。 きっとここは数年前の楽屋前だろう。 -- ある日。風の強い,手が悴むほどの寒さ。首に巻いたマフラの

shall we...?

左へ曲がる。湿った路地には雨の香りと油の匂いが立ち込める。それでも歩く。新調したブーツは砂利を底につけて、甲高い音を出す。 私が私たらしめる理由は、どこを歩くかを自分自身で決めることができるからだ。高尚な論理や下品な言動ではなく、ごく一般的な物事だった。月明かりが路面を照らし、風がそれを揺らした。 昨晩は早めに寝た。ベッドに斜めになり、極暗い映画を凝視めながら、浮世離れした空想の世界へと飛んでいった。 6時、目を開ける。雨の匂いと油の香りがする。少しの音が耳に響く。酸化し

戯言の効用

数週間の時間が空いてしまった。日記を書くことをやめていたわけではなく、noteという媒体に記載するというフローを忘れていたに過ぎない。 であるから、備忘録としての日記は健在だ。では逆になぜ、noteに記載しようと心変わりしたか、と聞かれれば、ひとこと、まぁ事由はないよというのが素直な回答だ。 往々にして、面白みのない生活に時間を溶かしている。いくつかの物理的移動と精神的躍動を促したルーティーンが功を奏した。五感を拡張させながら、幸せを全身に感じつつ、小さな変化を楽しむ。

逆算がすべてなのか

ひとりだと孤独を、ふたりだと劣等を、それ以上は疎外を、それぞれ感じてしまう人間。きっとちょっと頭が良くなりすぎた気がする。気が利きすぎて、変化できなかった場合の未来予測ができ、最悪のパターンほど想像しやすくなり、そこからの逆算の処理に追われている。 未来予測できる範囲は、一定の制限を有しており、あくまで物理的なものでしかない。例えば、数年経てば、その分歳を取ることになるが、その際の思考は、あくまで現時点から見たものでしかない。自身の思考の未来予測ほど、柔なものはない。思考基