知ることと勉強すること

知りたいという欲求がある。インド西部のタール砂漠に生息する生き物、40億年前に火星にいたかもしれない微生物、報酬を受け取る事により行動のモチベーションが下がる心理効果、社会能力と引き換えにある種の知能がとんでもなく高まる奇病、ネットで拡散する猫の画像とウイルスの繁殖に見られる共通点、存在しないはずの生き物を見たと確信する人々、インターネットの基盤となる暗号通信プロトコル。それらについて知ることはいつでもワクワクする。普段何気なく暮らしている世界の仕組みはどうなっているのか。それは美しいモノなのか醜いモノなのか。出来る限り多く知りたい、と思う。

 そこにあるのは複雑な事象を嘘のように美しく記述する数式であり、地道な努力と苦悩の果てに大発見をした科学者であり、見果てぬ夢を追い続ける冒険者であり、真理を描き出そうとした芸術家である。 彼らは美しく、輝いている。子供たちは彼らに憧れる。

 知ることはシンプルに楽しいし、シンプルにかっこいい。美しく魅力的だ。

 にも関わらず、「勉強」という言葉に私はアレルギーを感じる。その言葉が語られる状況にはどうも嫌な感じがするのだ。勉強をすれば人生の選択肢が増えると教壇で語る教師、テストの点数をしつこく尋ねる母親、本屋で平積みになっている「我が子を東大に入学させる方法」が書かれている本、もっと勉強をしとけばよかったとまるで古傷自慢のような“後悔”をする人、授業を“ブッチ”した自慢をする大学生、などなど。勉強をしたら褒め言葉が待っている。しなかったら嫌な事を言われる。子供たちは彼らを徹底的に嫌う。

 そこにあるのは、知識そのものよりそれを持つ人を崇める風習であり、義務としての勉強をしている人はしていない人より優れている事を前提としたコミュニケーションであり、社会が求める人物像に自らなりに行く若者であり、研究内容より遥かに大きな存在感を持つ大学のブランド価値であり、上から下へ正しさを押し付ける父権的な態度である。

 「勉強」という言葉の裏には社会が潜んでいる。それはどこまでも退屈で醜く威圧的で、ある意味では人間らしいが、やはり全く魅力は感じられない。

 問題はきっと、少なくとも私の場合は、魅力を感じる方よりも感じない方に心が惹かれてしまうことだろう。「知りたい」という態度がカッコいいと思うならそのカルチャーに身を置けばいい。そういった人々と付き合えばいい。勉強の威圧に負けず、知りたいという気持ちを絶やさなければいいのだ。
 

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