パブリックな感情を大切にする

私は今まで、自分の行動が自分の人生に及ぼす影響について考えてきた。しかし、それはつまらない事だと気付いた。

 プライベートな動機・感情で生きるとつまらない。プライベートな感情とは、誰か身近な人に認められたいとか、これをしたら尊敬されるかもとかこれをしたらモテるかもとかいうことだ。

 プライベートは本質的に自己充足的なモノだ。自分で「幸せだ」と思えればそれでいいし、満たされなければ永遠にそれを埋めるべく彷徨うことになる。

 それよりも、自分の行動が世の中に及ぼす影響について考えた方がよっぽど面白い。パブリックな動機・感情で生きるのだ。パブリックな感情は、「世の中に革新的なサービスをもたらしたい」とか「宇宙開発の歴史に名を残したい」とか「地球温暖化を少しでも食い止めたい」とか。パブリックでは日々新たなモノが生み出されるし、自分も生み出すことが出来る。パブリックは変わるが、プライベートの本質はそこまで変わらない。プライベートがどこまでも自己充足的なのに対して、パブリックは相互に繋がって痛みや喜びを分かち合うことが出来るし、行動によって未来を変える事もできる。

 しかしこうしたパブリックな感情を元に行動する人はあまり多くないようだ。なぜだろう?

 日本人はパブリックな感情を持つことが苦手なのかもしれない。持ったところでそれを語る場が無いので、庶民はそれを持つことを辞めてしまったのか?パブリックな感情が全て上の人間から押し付けられたことを受け入れる形での義務感・正義感に集約されるため、鬱陶しがられるのか?
 例えば、地球温暖化。グレタ・トゥーンベリさんを筆頭に欧米ではデモが相次いでいる。特に2000年代生まれの人にとっては、地球温暖化は想像上ではなく切実な恐怖の対象だ。自分たちがオジサン・オバサンになるころには地球に住めなくなっているかもしれないのだ。しかし日本や中国・韓国では、同じ世代の若者がデモをしたという話はあまり聞かない。

 ところで、映画やゲームなどでは最近、キャスティングや脚本でステレオタイプへ配慮した措置が取られることが多い。例えば従来の映画では主人公の男性がパブリックな動機で行動し、女性がプライベートな動機で想定外の事態を引き起こすというモノが多かった。

 しかし最近ではその立場が逆転する事も多い。聡明な女性による冷静な判断が、立場やプライドにこだわる男性に邪魔されるという構図の物語をよく見るようになった。スターウォーズ8とか。男らしさが機能障害を起こすご時世なのだろう。

 ちょっとなんも結論ないけどここまで。あとでまた書き足すかもしれません。

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