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The Messenger : The Story of Joan of Arc

映画ジャンヌ・ダルク(1999)を観て感じた事の記録。

ある方から、私の描くキャラクターにジャンヌ・ダルクのような雰囲気があると言っていただいた事があったので、この映画の事をふと思い出した。子供の頃に部分的に観た記憶があって妙に記憶に残っていた。

「妙に」というのは単純に良い記憶として残ってるとか、あるいは単にショッキングだったとか、そういう簡潔な言葉で表現できる記憶では無かったからだ。Milla Jovovichの演じるジャンヌは美しくて勇ましくてものすごくかっこよかったけれど、彼女の精神性の危うさと中世の宗教観や生々しい戦争の描写は子供が見るには結構ショッキングだった。(実際PG12なので小学生が見るべきじゃなかったのだが)

悲劇的な結末だったしなんか怖かったけれど、それだけではなく妙に印象に残っていたこの作品を大人になった今観たらちゃんと理解できるのではないかと思った。

結論から言うと、今の自分にとってとても意味のある強いメッセージ性のある作品だった。
というのも、私はこの作品を初めて観た時から何年も経った後にクリスチャンになったのでキリスト教の信仰についてより明確に理解することができるようになったというのがあり、恐らく万人に対して理解できるテーマやメッセージがあるとは言え、クリスチャンの視点で見るそれは解像度が全く違うと感じたからだ。

一見するとこの映画は、ジャンヌを単なる英雄ではなく精神異常者的な側面を持ち合わせた人間として解釈して描いた作品なので、ジャンヌを英雄として尊敬する人たちからすれば侮辱的な描かれ方をした映画なのかもしれない。
ところが全体を通して見ると、あえてジャンヌをそのように描いたのは彼女の英雄性を否定するアンチ的な意図からではなく、キリスト教信仰(あるいは全ての信仰)に対してのある重要な問いかけがなされるための手段だったように思える。

その問いかけとは、具体的に言うと「神の名を使って自分の望みを果たそうとしていないか?」「自分は善と悪をわきまえていると思い上がっていないか?」「神からの啓示と言い自分の見たいものだけを都合よく解釈していないか?」などといった手痛い指摘なのだ。
これはジャンヌが実際にそのような人間だったかどうかという事ではなく、このような信仰に対する問いと指摘を込めたメッセージを語る上でジャンヌのストーリーが題材として用いられただけなのだと思う(ジャンヌファンは嫌だったかもしれないが)。

ここ数年の私のクリスチャンとしての信仰はジェットコースターのような状態だった。
自分が同性愛者だと分かった後、それが当時議論が進んでおらず一般的に教会でタブー視されていたので、周りから受け入れてもらうために自分の一部を否定して、良くないものとして蓋をして、自分の望みを諦めることが神の御心に叶うものだと自分に言い聞かせていた。

結果的にそれが原因で精神を深く病んでしまうことになった。
いや、元はと言えば、クリスチャンになる前にも瀕死の状態だったのだ。世の中の価値観との乖離が激しく生きるのが辛いと感じていた自分は(今となって分かるのはそれは自分が同性愛者だったからなのだが)キリスト教信仰で救われて、生きるのが幾分も楽になった。ただ、それがあまりにも生きやすかったために、同性愛を自覚した時そこからまるで叩き落とされたかのような痛みが伴ったのだ。

そこから私は信仰を捨てるか、自分を捨てるかの二択の中で踠くようになった。そんな時第三の道を見つけた。それは自分を受け入れ、神を信じたまま、信仰を疑うという道だった。

何故「神」と「信仰」を別物として扱うのか?それは、人間は間違うからだ。神が正しかったとしても、人間の信仰の内容が正しいとは限らない。逆に言えば、信仰が間違っていたとしても、だから神も間違っているとは限らないと思ったのだ。
(これらの理屈は無神論者の前では意味をなさないのは承知だが)

むしろ、キリスト教信仰の問題点を理解すればするほど、イエスの言ったと記録されている言葉たちの正しさが浮き彫りになるばかりだった。
聖書に書いてある事を吟味する事は悪いことでは無い。弟子たちさえ間違う事を念頭におくべきだと個人的に強く思っている。
(弟子たちによるイエスの記録を疑うというのではなく、弟子たちによる説教が的を得ているかはイエスの言葉に照らして個々で評価されるべきだ)。

最初、このように同性愛者である自分を受け入れて信仰を疑う事は、自分を正当化するための偽善的行為のように感じられた。
しかし、知ろうとする前に偽善だとレッテルを貼って知ることさえも拒む事は、聖書にある「真理を追い求める」ことにむしろ矛盾する。盲信ではなく個々が疑問を追求し、知った上で評価して判断を下す事は真理を見極めるための一番健全な方法だ。

もちろん、全てのクリスチャンがそのように盲信していると言いたいわけでは無い。ただ、当然のことながら部分的には個人的に吟味されないまま牧師の言っていることを鵜呑みにすることもあるのは事実だと思う。

この映画で問われている問いかけたちは、全てのクリスチャンや信仰を持つ者に問いかけられている。
「自分は善と悪をわきまえていると思い上がっていないか?」「神の名を使って自分の望む事をなそうとしていないか?」
分からない事もあると謙虚な姿勢を持つことも知恵の一つだ。

絵の勉強をしたり、文章の感性を広げるため本を読んだり、記事を書く時のカフェ代などに使わせていただきます。