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見える世界はごく一部、その外の世界を意識しないと危険

今朝のつぶやきで、運動による筋肉痛に対して「筋肉は裏切らない」と表現しました。

改めて考えたのですが、筋肉は単に正直なだけなのですね。その正直さが無言で我々に運動不足を訴えかけてくるわけです。身体を動かすことの大切さを改めて思い知らされたことでした。

さて、……

私はnote以外にも別名で活動している。正確には「していた」に近い。今はその活動領域で自分のできることがかなり減ったからである。やめたわけではないが、細々と続けているといったところ。

noteに移り、50代のオジさんが経験するできごとをお伝えしたり、それなりに人生経験を持った人間の一人として考えたことをお披露目したりするようになって2年半が経つ。

活動領域を移せば、環境も関係者も当然変わってくる。電子出版をするようになって周りを見渡すと、支出減・収入増・副業に関心のある人が増えたと思っている。

それが明確に表れるのがTwitterのタイムライン。かつての活動領域のアカウントと今のアカウントでタイムラインを見ると、同じ日本社会を反映しているとは思えないくらい流れてくるtweetの内容が異なる。

今のアカウントのタイムラインは、社会で起こるさまざまな事象に対する反応が薄い。安倍元首相の暗殺についても、コミットするものが少なかった。従来と大差なく、支出減・収入増・副業についてのtweetが流れている。

逆にそれまでのタイムラインには左右いずれの人もいた。そして社会事象が起これば、それについて何か言わないと気が済まない人が多かった。但し、そちらで収入系についてのコメントはほぼ皆無である。

それはお金持ちだから、というわけでは多分ない。そちらでは、むしろ「制度として国が何とかすべき」的なスタンスの人が多かったので、収入系についてのコメントが出ないのだろうと臆測している。

このような経験から、見る世界が変われば人も変わることを実感している。

本来、個人の収入増も個人が社会について考えることも、両方とも人間にとって必要な取り組みだと思う。だから、片方に偏るのはよくないと思っている。

今は、ネットで同じ興味を持つ人間を簡単に見つけられる時代。だからこそ、そこで深く交流して他の考え方に思いを致さなくなるのは危険だと思う。

仲間達と熱い心を持って意見を戦わせることは悪くない。でも、自分達とは反対の見方をする人、或いは自分達が深く関心を持っていることにそもそも全く興味がない人がいる、ということは頭の片隅に置く必要がある。

「ネットで炎上」と表現される事態が頻発しているのも、自分の頭の中のことは当たり前だと捉えてしまいゼロからキチンと説明しないことや、異なる考え方を認められず否定しかできないことが発端にあるのではないかと思っている。

熱くなり過ぎる前に、冷静さを取り戻したいもの。当たり前だけどとても大事なことだと思っている。

お読み頂き、ありがとうございました。

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