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進む認知症②(理屈と情のせめぎ合い)

しかし、冷静に考えるとおかしい。我々が自分の子どもだと認識できていないのであれば、何で「赤の他人」に対して2年ぶりだと無沙汰を責められるのか?

単に「よく見かける人」であるならば、そういう反応にはならないだろう。ちぐはぐな気がした。

更に、今まで我々が会うようにしてきた努力が、きれいに忘れられてしまった事実は、残念ではあるが仕方がない。まさに認知能力の喪失が原因である以上、能力が失われたことを以てその人を責めるのは酷だと考えるからだ。

ただ、2年間「会った記憶がない」は、「会いに来ていない」とは必然的に結びつかないはず。「会った記憶がな」いが「会いに来ていたかも知れない」も、論理的に成り立つのだ。

この点、被害妄想的になっていることが窺われた。これは聞いた話であるが、「○○が無くなった」と言って大騒ぎする人はいるらしい。大抵本人がチョイ置きしたのを忘れただけなのだが、途端に「盗られた」と思い込むらしいのだ。

母にそういう気配はないのは幸いなものの、自省する能力も失われて他罰的になった結果、人を好意的に見られなくなっているのだろうと理解した。

認知症の人に対して事実と理屈で説得しても、翌日には忘れるだろう。でも、だからと言って話を聞くだけなのは我々の感情的に辛い。

つい、「お昼ご飯のおかずは何だった?」と聞いてしまった。母は絶句して答えられなかった。

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