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教え方が悪いという気付きは、もっと増えてよい
今日の帰りは時間を追うごとに天候が悪化。退社時には傘は不要でしたが、家の近くでは傘を差したくても差せないくらい強い風に見舞われました。幸い雨が弱まっており、多少濡れながらも大過なく家に帰り着くことができました。ヤレヤレ。
さて、……。
①世の中において、知識や技能の持ち主は尊敬される。それらを用いて人より大きく世の中に貢献できるからだと理解している。
②だから、その「ありがたい」知識や技能を教えてくれる人には感謝すべきであり、それなりの礼節を持って接するべきだと考える。
③教える者は、体得した知識や技能を授けてくれるのだから、それを教わる者は全神経を傾けて理解・習熟に努めねばならない。
④教わる者が体得できないのはその心構えに問題がある。身につけたいと願う熱意、持って生まれた能力が不足している。
⑤教える者は体得できているのだから勘所も要点も全部分かっている。無事に伝授できれば教える者のおかげ、できなければ教わる者の何かの不足に起因する。
と並べて書いてみると、読んでいて途中から引っ掛かりを感じる人が増えたのではないかと思っている。
特に④の段落はつい我が身に置き換えて受け止めてしまい、「ちょっとそれは違うんじゃない?」と思った人はいると思う。
そして⑤の段落は、大抵の人が強烈な違和感を感じるはず。
⑤の段落については、そもそもうまくいった時といかない時で責任の主体が変わるのはおかしい。論理的ではないのである。教える行為に伴う結果であれば、それがどっちに転んだとしても同じ立場に立つ者がその責めを負うべきである。
①〜⑤の文章は、私も多少意識的にこのような書き方をしたのだけど、それもあっておかしさがあぶり出されてきたと思う。でも教育の現場では、このようなお話が結構当たり前のように語られることがあるのではなかろうか。
教わったことが身に付かない、体得できないのは、究極的には教わる者の能力の可能性はある。それは認める。でも、教わる者の適性に配慮した教え方がなされたのかについて、もう少し検証されるべきだと考える。
教育に長けた人だと「そうか、分からないか…俺の教え方が悪いんだな」と別の解法アプローチを試みたりする。人に教える姿勢としては、こちらの方が優れていると思うのだけど、いかがだろうか。
例えば三平方の定理について、その証明方法が複数あることはあなたもご存知だろう。一つを教えたのに理解できないからと言って、教えられる側の熱意や能力の不足と言われるのはどうか。教える者が体得する能力はあっても教える能力に欠けている可能性もあり得る。
少なくとも、どんな人間にもプライドというのはあって、それを傷つけることでやる気を喪失させるのは、下の下であると言い切る。
どうすれば理解してもらえるのか、と教えることを楽しめる人がもっと増えて欲しいと心から願っている。
お読み頂き、ありがとうございました。
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