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雑草のように生きるって

今朝はかなり冷え込みました。やはり一直線に温かくはならないものです。三寒四温とはよく言ったものだと感じます。

さて、……。

あなたはこれまでの人生において、タイトルのような言葉を聞いた(言われた)ことはないだろうか。

私はある。雑草は強くたくましく生きる代表であるかのように言われている。

でも、本当に雑草は強くたくましいのだろうか。

我が家の猫額の庭にも雑草が生える。芝生のわずかな隙間からも、植え込みの木の下からも名前がよく分からない草が生えてくる。

朝ドラ・らんまんの主人公モデル・牧野富太郎博士によれば「雑草という草はない」そうだけど、名前はあってもそれを調べたくならない草というのはあって、それを一般的に雑草と呼んでいるのではないかと思っている。

確かに「よくもまあそんなところに生えるね」と思うことはあるのだけど、引っ張れば普通に抜ける。この点で強いとは思わない。

それでも、先週きれいに抜いたはずなのに、今日見てみるとまた同じ葉の形の雑草が生えていることは珍しくない。その点はたくましいと言える気もするけれど、残念ながら先週抜いた個体ではない。つまり、個体としてたくましいのではなく、種類として数で勝負して生き残りを賭けている点でたくましいのである。

ここで、私たちは人間視点でこの状況を見て判断していることに気付く必要がある。この、私という人間からかなり目の敵にされて、ちょっと芽を出せば引っこ抜かれるという立場に置かれている雑草から見たら、自身の状況をどう感じているだろうか。

恐らく、雑草からすればイヤだと感じるだろう。もっと安心して成長したいと考えるのではないか。

もちろんこれは推測である。そもそも雑草に意思も感情もないので、考えても仕方がないことだとのご意見もあるだろう。それでも、雑草側が望んでいないと推測される生き方を、人間に「雑草のように強くたくましく」と推奨するのってどうだろう。

雑草はもしかしたら「冗談じゃない。勝手なことを言わないでほしい。自分だって胡蝶蘭のように温室でヌクヌクと大事に世話されて育ちたい」と思っているかも知れない。あなたはこれを否定しきれるだろうか。

よく使われる言い回しなので、何も考えずに流してしまいがち。でも、よくよく考えると誰も(雑草も)そうありたいと思っていない生き方を人に説いて悦に入るのはちょっとどうかとの疑問が浮かんだ。

ただ、こういう苦労して育つべきだという根拠のない主張に日本人は流されがちだということは、意識すべきことだと感じている。

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