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「崔杼弑君(崔杼、君を弑す)」を命懸けで書き残した史官の覚悟

今日は、朝から病院に行きました。鼻をグスグスさせている患者が結構いたのですが、コロナの症状ではないとの見方をしている自分に知見が備わっていることを感じました。

さて、……

タイトルははるか昔、春秋時代の中国・斉の国で起こったできごと。崔杼(さいちょ)という人物が仕えていた王を殺したのだが、これは紀元前548年のこと。計算すると今から2570年前に起こったことになる。

そんな大昔のことを、我々がなぜ知ることができるのか。それは歴史を記す史官が、起こったできごとを記録として営々と残してきたからである。

紙もない時代には、竹簡にそれを書き連ねてきた。彼ら自身がその名を歴史に残すことはなかったが、その営みは今に伝わっている。

この件については、ものすごいエピソードが残っている。

(太史が『崔杼、其の君を弑す』と事実を史書に書いたので、崔杼はこれを殺した。後をついだ太史の弟も同じことを書いたので、二人目も殺された。しかし彼らの弟はまた同じことを書き、とうとうこれを舎(ゆる)した。太史兄弟が殺されたことを聞いた別の史官は『崔杼其の君を弑す』と書いた竹簡を持って駆けつけたが、すでに事実が記録されたと聞いて帰った)

Wikipedia「崔杼弑君」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%94%E6%9D%BC#%E3%80%8C%E5%B4%94%E6%9D%BC%E5%BC%91%E5%90%9B%E3%80%8D

命懸けで歴史を後世に伝えた彼らの使命感には、ただただ頭を垂れる他はない。

こんなことを思い出したのは、NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の終わりが近づいているから。一回ドラマを中断して出演者の座談会が行われた際に、「このドラマのエンディングが、そんなのアリ?」状態だと語られたのだ。

大河ドラマも歴史物である以上、大筋は歴史上の事実に従わねばならない。源義経が中国に渡ってジンギスカンになったり、織田信長が桶狭間で討ち死にしたりはあり得ないのである。

では、今回の主人公である北条義時はどのような最期を迎えたのか。歴史書の記録を見れば良いではないか、ということになる。

『吾妻鏡』では脚気と暑気あたりのためと記されている。しかし、吾妻鏡は権力者である北条家側からの記述で、北条一族に対する否定的な事績は書かれない傾向がある。

今回のドラマの中で、その最期を惜しまれた上総介広常は、頼朝の命により殺された。しかし、その理由や殺された際の状況も吾妻鏡には明記されていない。そういう点も踏まえると、書かれていることが全て真実かという疑念を持たねばならない。

同時代に書かれた『百錬抄』や『明恵上人伝記』等の二次資料では譲り状を書く間もなく急死したとされており、ここに何かあったのではないかと思わせるものがある。毒殺説も取り沙汰されている。

これらを踏まえた上で最終回のシナリオが書かれているのだろう。明記されていない歴史を逆手に取ったストーリーを展開できるとも言える。どんな描かれ方をするのかが楽しみである。

翻って今の世では、サーバーに保存しさえすれば済む公文書が破棄されたりしている。これがとんでもない悪行であること、そして専制だと批判される中国でも、かつては歴史の記録に命を賭けた人がいたことを、我々は今一度思い起こさねばならないと思う。

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