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「アニチン」が生んだ絶大な効果

今日の帰宅時は湿っぽいモヤモヤとした空気と厚い雲に覆われました。雨が降るのではないかとヒヤヒヤしながら、何とか降られずに帰宅できました。

さて、……。

タイトルの「アニチン」って何だろう? と疑問を感じた方は結構おられるはず。それはごもっともなこと。なぜなら、私が単にそう命名しただけのものだから。つまり、知らない方が普通である。

なお、身体によさそうなアミノ酸の名前でもないので念のため。

答えは、太平洋戦争における「開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)」の中の一文「豈朕が志ならんや」の最初の4文字を読んだものである。以下のリンクから全文を読むことができるので、ご興味がある方はご一読頂ければ幸い。

「なぁんだ」と思われたかも知れない。でも、この一文は後に大きな影響力を持った。

日本が太平洋戦争で負けたのは、今更私が言うまでもない公知の事実。その後、極東国際軍事裁判、俗に東京裁判が開廷され、日本の戦争犯罪が裁かれることになった。この時に昭和天皇を訴追対象にするかについて、連合国側で議論があった。

この時に、この一文が効果を発揮した。天皇は開戦を望んではいなかったという論拠とされたのである。

元々、終戦の翌月に昭和天皇が連合国軍最高司令官であるマッカーサーと駐日アメリカ大使館で会談した時に「全責任は私が負う」と言った。このことにマッカーサーは深く感動した。そのため、予定になかったのに玄関まで見送ったほどであった。

そして、その後人間宣言をしたものの天皇に対する尊崇の気持ちが依然として強い日本の国情を考えれば、裁判でその責任を問うことで占領政策の支障になるのは得策ではない、更に治安を維持するためにより多くの駐留が必要となり経費が掛かるのを避けたいといった損得勘定もあった。

連合国の中も一枚岩ではなく、中には天皇を訴追しようという動きがなかったわけではない。東条英機元首相が裁判の審理中に「自分は天皇陛下の意に従って行動した」と言ったのを聞きとがめられたこともあった。

これ、詰めて考えると開戦は天皇陛下の御意志であったということになる。でも、これについては「陛下にしぶしぶご同意頂いたのであり、陛下が望んだことではなかった」と言い訳をして天皇を守った。

実は、開戦の3ヶ月前の御前会議で昭和天皇が「よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」と明治天皇の御製を詠んだ。このことも天皇が戦いを望んでいなかったことの傍証である。

詔書は国内だけでなく国外にも国の意思を示す公式文書となる。そのため、詔書の方が重みがあり影響力は大きかった。だから、この一文がもしなかったら東京裁判がどうなっていただろうかと思われる。

なお、今でも外交で「私は喜んで戦争を開始した」と主張する者はいない。この点では詔書と同じ傾向が踏襲されている。というより、一般的な外交しぐさなのだろう。プーチン大統領もネオナチの掃討のために軍事行動を起こしたと言っているくらいだし。

後でどのようにも理屈づけはできると言われればそれまでだけれど、それでも後々に大きな力を持つ可能性を頭に入れていた詔書起草者の慧眼に、深く頭を垂れるものである。

お読み頂き、ありがとうございました。

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