そのものだけの価値を見定められなくなったことを憂う
今日は、朝からかなりの雨が降りました。おかげで折り畳み傘ではなく、普通の傘を持って出る覚悟ができました。それはそれで良かったとも思います。
さて……。
今の日本の行き詰まり感は、過剰な「その他」を求めすぎることに原因があるのではないかと思い至った。
目の前のものの価値をそのものだけで判断しない。むしろオマケとして付いてくる何かがあって当然、それがないとそのものに価値がないかのような感覚が蔓延している。
某テレビショッピングで顕著だけど、値引きは当たり前でそれに加えていろいろな商品がオマケで付いてくる。更に一つ商品を買うともう一つ同じ商品を付けてお値段が変わらないことすらある。
このような商売って、本体そのものの価値を売り手が自ら破壊しているように思うのだけど、いかがだろうか。
そういうオマケも要らないし二つもあっても困るから、正味の値段で売って欲しいと思う私は、少数派なのかと自分を疑ってしまう。
このフワッとしたお得感による商法に慣れてしまう弊害は、段々オマケ欲しさに消費行動をしてしまうこと。
昔プロ野球選手のカードの付いたスナック菓子があった。ついにはカードだけ取ってお菓子を捨てるバチ当たりな子まで現れて社会問題になった。
かなり昔なので記憶されている人は少ないかも知れない。でも、今の大人も似たような行動をしているのだから、笑えない。
このオマケでお得感を盛り上げるのには当然限度がある。それなのにもっとすごいモノを期待されるようになると、いずれ破綻は目に見えている。
ふるさと納税も然り。本質は地域の応援だったのが返礼品競争になってしまっている。
そして、情報ですら本質よりもサイドストーリーが注目される。大谷選手が何を食べようがどんな家に住もうがどうでもよいはずだけど、本業の野球以上にそういうところがフォーカスされている。
家族の安全を侵したとして大谷選手が激怒、出禁になったテレビ局もあるようだけど、全くかばう気にならない。
ノーベル賞受賞者の記者会見も研究の価値と着想の非凡さをもっと詳しく語るべきなのに、全く事前の勉強もせず「好きな食べ物は?」等と聞いてくる。
ことほど左様に目の前のものの価値を見定める能力を失った日本において、世界が驚く新機軸など打ち出せるものではないだろう。
誰かが美味いと言えば、自分の舌で判断することもせずありがたがる。とにかく1円でも安くと値切ろうとする。いずれもものの価値を知る姿勢からはほど遠い。
高度成長時の日本は素晴らしかった。でも、今もそうなのかは再確認する必要がある。
お読み頂き、ありがとうございました。