離婚しづらい社会って、やはり違う気がする

早朝の雨が上がるとうららかな春の日差しとなりました。風もほとんど吹かず、穏やかな一日でした。いつもこうだと良いのですが、春は荒れるのが基本だと分かってもいます。

さて、……。

このニュースの見出しを見た時、一瞬「あれ、記者に向かって『頭悪いね』と言ったあの人ってまだ国会議員だったっけ?」と誤認したが、別の谷川議員だった。

それはさておき、この主張について議論するには「婚姻制度とはそもそも何ぞや」から考えねばならない。

ウィキペディアを調べても、結婚の項の冒頭に「結婚の定義は文化や宗教によって、また時間の経過とともに変化する」と記載されている。

これに加えて、議論する当事者の育った家庭環境の違いもあることから、各自の結婚についての認識はばらついていると思われる。よって、これらを整理しないと議論にならず結論を得るのは難しいと考える。

よって、以下は私の私見でしかないことをおことわりしながら書いてみたい。

もちろん、ちょっと気に入らないことがあれば離婚するような社会が健全だとは思わない。また、是非はともかく一般に家庭を持って一人前という認識がまだまだ幅を利かせており、家庭は社会基盤の最小構成単位だとされることもある。

少なくとも過去から現在においては、これを基礎としなければ議論にならない。今後どうあるべきかを考えるに際しても、過去にあった事実は踏まえなければならないと認識している。

次に、憲法第24条では「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」と定めている。昨今は同性婚も議論されており、「両性」という言葉がそぐわないという意見もあるが、これは今回の対象ではないので割愛する。

ここで「合意のみに基いて」と言いつつ、実際は役所に届出しないと公的には婚姻関係を認められない(=内縁に留まる)のは若干疑問があるところ。それも今回の対象ではないので割愛する。但し「合意のみ」の文言は大きいと思う。

それは婚姻する二人の意思の合致により結婚できるのであり、親兄弟親族等の合意は要らないということ。かつて存在した身分の相違や親同士の不仲等で駆け落ちか心中しか選べなかった時代とは異なる。

これは、見方を変えると両性の合意が成り立たなくなったら離婚もありということ。子どものことを持ち出すのは道徳的にはあり得るけど、それは直ちに法が要請するものではないとも言える。

谷川議員の「離婚して誰も得しない。子どものことを考えれば、離婚しづらい世の中の方がいいと思う」との主張は、この点では個人の価値観でしかない。なお、離婚は二人が社会において築いた社会基盤を解体・撤去する行為で、そのこと自体で利益を得ることは基本的にあり得ない。

むしろ、損切りしてでも解体・撤去せざるを得ない状態であるならば更なる損失を未然に防ぐ点では得をしたとも言えるのではないか。見切り千両という投資格言もあるくらいなのだから。

婚姻関係は両性の合意のみで成立するけれど、その維持には両性の不断の努力も必要。不倫や家庭内暴力などは論外であるが、両者の成長の伸び方が変わると段々差が開いて一緒にいるのが苦しくなると、関係がギクシャクし始める。

子どもにとって家庭は安心できる場であるべきで、一人立ちの時まで不安や恐怖を感じるようであってはならない。だから、離婚しないように努力をすべきとは言えても、離婚しづらい社会はやはりよろしくないというのが私の結論。

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