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子どもへ教えることを見直すべきか悩む

金曜日の夕方になると「これは今日中にやってしまおう」「あれは来週でもいいや」という選別を、無意識にし始めている自分に気付きます。勤め人の習い性ですね。あなたもお疲れ様でした。

さて、……。

昨今の世相を見ていて、これまでの子どもに教えてきたことがそのままでよいのか率直に悩む。悩む対象は、具体的には以下のようなことを教えてよいかということ。

・悪いことをしない。
・悪いと思ったら謝る。
・金がなくても正しく生きる。
・人の嫌がることはしない。
・食べ物を大事にする。

「はぁ? 何を悩むことがあるの? 当たり前のことばかりじゃないの?」と思われる人が多いことを切に願う。

私も本来これらは当たり前のことだと思ってきた。しかし、今の世の中の動向を見て、それが当たり前になっているだろうか。

自民党国会議員による裏金問題。大多数の国会議員は反省しているようでいて自分たちのしてきた行為について謝ってはいない。

「国民の皆様にご心配をお掛けしたことについては申し訳ないと思っている」との言い方、この論理だと裏金を持っていたことについては謝っていないというのが私の理解だけど、違うだろうか?

金があるのに正しく生きているとは感じられず、何だかなあとの思いを強くする。

次にネット上の論客。結構な学歴・経歴をお持ちだが、自らの非を認めることは極めてマレ。最後は強い言葉で言い切って終わり。謝ったら死ぬ病気にでもかかっているのかと疑うレベル。

イジメは一向に収まらない。1986年2月に鹿川君がイジメを苦に自殺したのは約40年も前のこと。その後も人の嫌がることを執拗にやり続けるおぞましさに気付けない子は存在し続けている。しかも、人を踏みつけて死に至らしめても大した責任を問われない現実。

「このままじゃ生き地獄になっちゃうよ」という鹿川君の訴えは、今の日本には届いていない。

世の中はバエの時代。バエるデコレーションを施された食べ物を買ったはよいが、その写真を撮ってインスタに上げたら目的を達したとばかりにその食べ物をろくに食べずに置いて帰る輩がいるとか。

私の世代は親が戦争直後の食糧難を経験したこともあり、食べ物を粗末にすることは厳しく戒められた。でも今は、そういう感覚も共有されなくなっている。

貧困家庭が増えていて、実は満足に食べられない人たちが世の中に少なくない。そのことを慮れば行動も変わるはずだけど、そういう気持ちも廃れてきている。

ざっと書いてみたけれど、このような精神的貧困があふれる今の社会で、自分の正義感や優しさとの板挟みに苦しむ生き方は辛いし損をする。

だからこそ、子どもたちにこれまでの自分の価値観に立脚した教育を続けてよいのかとの悩みが深くなる。

私はこれまでの当たり前であった人としての徳目を大事にしたいが、それを教えることがわが子に茨の道を歩ませることにつながることを危惧する。

そして、人としての徳目を全く意に介さない国会議員が「古き良き日本」という言葉を用いることに、ものすごい違和感と気持ち悪さを感じている。

お読み頂き、ありがとうございました。

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