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介護家族に求められる軽くはない決断

晴れれば暑く、雨が降れば夏っぽくない。そしてコロナでステイホームが求められる昨今、何となく抑圧されているような感覚に陥りますが、あなたが心の健康を第一に過ごされるよう願っています。

さて……

昨日、老人ホームで倒れた母の対応についての記事を書いた。

医師からの説明が終わり、入院手続書類の記入を求められた際に、延命治療についての家族の意思も確認された。これが結構重いものであったと今にして感じている。

後期高齢者であれば、大抵身体のどこかの機能が低下している。それに起因する各種のリスクというのはあって、「そのリスクが発現した時にどうしますか?」とサラッと問われたのだ。

敢えて私の理解を混ぜてお伝えすると、例えば

「蘇生のための救命措置(心臓マッサージ)を(肋骨が折れるリスクを認識した上で)求めますか?」

ということになる。

あなたはこれを極論だと笑い飛ばせるだろうか? 介護の現場を知っていればいるほど、笑うことはできないと思う。

この点、救命措置をしないとすれば、ほぼ間違いなく死に直結する。しかし救命措置をするとしても、それなりのリスクがある。家族は本人意思を推定した上で、本人の代わりに回答を求められることになる。

「何もしないのは人間としてどうよ?」との思い、「座して死を待つのか?」との葛藤はある。人は最後の最後まで生きる努力をすべきとの理想も、もちろん頭の中にある。

一方で本人からは、かつて「自然の成り行きに逆らってまで生きたいとは思っていないからね」と言われたのも確かである。

これらの相対立する根拠の中で、母は少しずつ認知症が進み、今では自らの明確な意思を示せなくなった。そして、家族が本人意思に代わって回答を求められることとなった。

冷静に考えれば、こういう部分にも成年後見制度の拡充が行われるべきだと思う。しかしこの極めて情緒が絡む部分では、スルーされているのが実態。

今回の母の入院を契機に、介護する家族は人間性を問われかねない決断をあまり手がかりもないまま求められることを改めて知った。まさに我がことである実感を持つに至った、と言うべきかも知れない。

延命治療の選択も、自らの決断のアリバイ作り以上の価値があるのかの確信が持てない中で、人知れずそれを求められてきた他の多くのご家族の苦衷を思い知った経験でもあった。

お読み頂き、ありがとうございました。

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