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介護家族にも守るべき本人の命の線引きが求められる時代になった

月曜日から天気がイマイチなのは、ちょっと勘弁願いたいですね。台風も迫っていますが、雨はもういいやと思うこの頃。

さて……

今回は、土曜日から記事にしている母の入院対応について、総括したい。

昔は、患者への対応は医療側がほとんどを決めていた。家族が対応方針の決定に関わることは少なく、結果のみ通知される場合の方がはるかに多かった。

しかし医療過誤問題等の発生や医療を受ける側の権利意識の高まり等により、医療側だけで患者への対応を決めるのが難しくなった。そして、医療側に説明責任が求められるようになった。

このこと自体は良いことだと思う。しかしそれは、家族の側に患者の命に関わる決定権が移転することでもある。これはかなり重い。

医療側は過去の臨床データから「このような状況であればほぼ助からない」、或いは「この措置はリスクが低く、その実施である程度延命できる」といったことを「実感を持って」知っている。しかし、家族側にはそれがない。

経験知の差は歴然で、家族側の決断は「エイヤー!」でしかない状況に陥る。医療側の説明があっても、補いきれない部分は出てくる。

不測の事態に陥った場合、医療側は説明したことで免責となるのかも知れない。でも経験知に圧倒的な差異があるのに、決断を家族に委ねその責任まで負わせても良いものだろうか?

もっとも、家族側はその責任を公的には問われない。しかし生じた結果に対し、家族側が自らを納得させられるのかは、別の問題である。だからこそ、医療側による緊密な情報共有とそれによる納得感の醸成は必須であろう。

それなしでは、後々に大きな禍根を残すことになる。家族側が「やはりこれは仕方がない選択であった」と言い切れるようなサポートは必須だと考える。

ただ、かつて医療側がほぼ全権を持っていた時の思考が、今も多くの人たちの脳裏に色濃く残っている。我々家族側も、決定者として医療側が持てる最新の知見の開示を積極的に求めなければならない。

そうしなければ家族側の決断は難しく、かつ決断しても確信が持てない。「家族の意思を最優先」という耳障りの良い言葉の背後には、このような重荷を背負う覚悟が求められていることに思いを致す必要がある。

最後には合理的な判断にほぼ収まるとしても、その過程については我々も根底から考え方を改める必要があるのは間違いない。

お読み頂き、ありがとうございました。

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