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「お天道様は見ている」について考える

今日はかなりのポカポカ陽気になりました。いきなりこうなるのも体が追いつかないですね。

さて、……

宗教的な話を避けるため、敢えてタイトルのように記載した。だから、お天道様に別の名称を当てはめて考えて頂いてもよいとは思っている。

実際、子どもの頃から私達は「悪いことをすると、死んだ後にお裁きにあって地獄に落とされるんだよ」的なことはよく言われてきた。幼稚園の先生がその手の話をよくしていて、素直な私は怖がっていたことを今でも覚えている。

その戒めが体の芯まで染み通った結果、今でも悪いことはしていない自信がある。「三つ子の魂百まで」であることを改めて感じる。

でも、それは当然見られているという意識がなければ成り立たない。目に見えないものの存在を信じるかについては、まさに人それぞれだと思う。

ただ、昨今の世界情勢を見ると、大いなる疑問を感じてしまう。というのは、無神論者が多い日本よりも厳格な宗教意識を持つ国において、戦争をしている場合が多いように感じるからである。これはどういうことなのだろう。

推測となるが、恐らく他国に侵攻しても、それがお天道様の御心にかなうものとして整理されてしまうからだろう。この場合、戦争への抑止力には当然ならない。それどころか、更に戦争を促進してしまう。

もちろん、このような整理は個人の内部だけで合理性があるもの。客観的には我田引水・牽強付会でしかないのであるが、本人が真剣にそう信じてしまうのであればどうにもならない。

むしろ、人はそういうことをする存在だと考えて対応していく必要がある。ここでその「個人」がとても大きな力を持っている場合、世界全体に悪影響を及ぼすのは必至となる。

「お天道様は見ている」という考えは、子どもに良い行動を意識させるのには役立つ。でも、大人は大人の知恵と理屈でいくらでも自分の行動を正当化させてしまう。この点で、大人にはあまり役に立たないとも考えられる。

ただ「お天道様に見ていて欲しい」という願望は、大人にもある。特に逆境にいる人間にとってそれは切実なものとなる。寄る辺ない人の心を支える効果もあり、一面でこの言葉を無用だと切り捨てるのは難しいと考えている。

信仰心の厚い方からすれば、このような解釈はけしからんものかも知れない。それは重々承知している。

さりとて誰もが一度はベタで思った「お天道様は見ているのか、見ているのになぜこんな悲惨なことが起こるのか」について、上記は私なりに考えた結論である。

お読み頂き、ありがとうございました。

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