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パラリンピックの聖火採取場所への疑問

東京パラ聖火 相模原 障害者殺傷事件の施設で採取へ | NHKニュース

このニュースを見た時に、かなりの違和感を感じた。

そもそもパラリンピックの聖火は、ギリシアから運ばれてくるのではないのか? オリンピックとは違うのか? という知識不足からの違和感が最初に湧いた。その後に、相模原の障害者殺傷事件の施設を採火の場所として選ぶのは、ふさわしくないのではないかと思った。

この地で起こったことは、私が改めて書き記すまでもない。1人の障害者蔑視者の一方的・独善的な思いによって、19人の障害者の命が無惨に奪われたのである。

違和感の根源には、ここで差別のない社会づくりに向けて何らかの未来志向の決意表明等がなされたのか? との疑問がある。何もないのであれば、加害者の凶行と狂気を改めて世に知らしめるだけになりかねない。

私は母の介護を通じて、人は年を取ればいずれ障害者になるという現実を目の当たりにした。だから、それまで以上に障害者に対する社会の受容に意識が向くようになった。いずれは我が身なのだから当然である。

このような視点に立てば、一犯罪者の偏見ではなく、かつて国がハンセン病患者を療養所に隔離・強制収容した事実、更に日本のみならず世界各国で精神障害者等に断種が行われた事実にも着目すべきだとの考えが頭に浮かぶ。

とはいえオリンピック・パラリンピックは、世界の人の気持ちを明るく前向きにすべきものだと理解している。障害者に対するかつての過ちを繰り返さない反省と決意は必要だが、それを以てパラリンピックの聖火の採取を行う場所に選定するのは、やはりそぐわないと感じている。

今回の採火場所選定の背景には、障害者が自分たちとは異なる存在だとの感覚があるように思う。

「子ども叱るな来た道じゃ 年寄り笑うな行く道じゃ」と同様に、「皆がいずれは障害者」という自覚を持つことが大切だろう。

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