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何気なく出るマウントには気を付けたいと思うこと
今日は朝から涼しい一日でした。ただ、湿度はどうにもなりません。カラッとした気候は、本格的な秋になるまで難しそうです。
さて、……
「上には上がある」という言葉。本来は自戒の意味合いで使い、慢心を戒める言葉だと思う。しかし、この言葉の前提として「人に上下がある」と思っているからこんな言葉を思いつくのだ、と突っ込まれると少しツラくなる。
能力やそれに基づくでき栄えに差があるのはやむを得ないとの反論は可能。でも、その差を受け入れつつ「人間としての価値に差はない」と言うのはどうだろう。道徳的にはその通りなものの、ちょっと嘘っぽい気配が漂う。
実は「人間は人間であるがゆえに尊い」という主張は最後の最後に使う究極の切り札で、軽々に用いてはならないように感じている。水戸黄門もなかなか印籠を見せない。使い所を誤ると滑稽になってしまうからだろう。
……と書いて、ひょっとしたらあなたは水戸黄門を知らない世代に属する方なのかも知れないことに思い至る。ご存知なければ、以下のリンクを参照願いたい。
話を戻す。全ての人を尊重すべきというのは、方向性として全く正しい。そして国や自治体等の公権力は、それを絶対に守らねばならない。そもそも憲法は、国王の恣意を戒め法の下の平等を保障するために生まれたもの。
基本的には私達普通の人間も、その方向性には従うべきだと強く思う。だからこそ、ヘイトスピーチ等は個人であってもすべきでないとの結論に繋がる。
但し、個人には感情があり好みがある。このことは否定はできない。個人には内心の自由がある。だから人間の個性への着目までもが悪いことだと捉えてはなるまい。自分にはない個性に惹かれることも、自分に似た個性に親近感を抱くこともあり得る。
この「同様に確からしい順列組み合わせ」で社会の少なからぬ部分が構成されている。だから世の中は面白いとも言える。
人は人間一般とは結婚しない、というかできない。個性を持った1人の人間と結婚する。このことについて「人を差別している」或いは「人に上下をつけている」と批判されることはまずない。それは個人の尊厳とは別次元のものだと思う。
修学旅行の班決めで揉めるのも、合う合わないがあるからである。そういうことがあることを認めつつ、それでも世の中をうまく回していくことを一緒に考えることを学び、実践していくべきなのである。
もし、お互いに譲れるところを譲る精神を持ち合わせていれば、より良い社会ができあがっていると思う。しかし残念ながら、なかなかそういう機運が盛り上がっていない。
少なからぬ人が、自分がマウントを取っていることに気付いていないように感じる。私などは、マウントの取り合いなんて疲れるだけだと思うのだけど、違うのだろうか。マウントの取り合いこそ我が生きがいなのだとすれば、大いに残念に思う。
お読み頂き、ありがとうございました。
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