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私のかなり特殊な文学の見方

タイトル写真はPexelsのcottonbroによる写真

今日は想定外のできごとが多くて、元々やろうと思っていたことの半分もできませんでした。まあ、そういう日もあるなあということで。

さて、……

小説には、「純文学」と「大衆文学」があるとされる。それぞれを対象とする文学賞も異なっている。

更に、純文学も大衆文学も基本的にはフィクションであることを踏まえると、小説の中でノンフィクション小説は少数派、もっと言えば異端の存在となっている。

私見であるが、事実の持つ重みというのは厳然と存在すると思う。従って、個人の空想を書き連ねた純文学や大衆文学に比べ、本来は事実に基づくノンフィクション小説の方が重みがあるという認識を思っている。

でも、世の中では純文学や大衆文学の方がもてはやされている。これはなぜだろうか?

全く私個人の当て推量であるが、そもそも世の中で事実の摘示がそれほど求められていないのではないかと考える。

つまり、実社会で生きている大多数の人は「今自分が関わっている現実だけで十分、これ以上事実の重みなど感じたくもない」のが本音だと、私は推測している。 

もっと言えば、多くの人が現実社会に辟易としているのである。だから、現実離れした純文学や、身近な世界を描きつつも自分の願望や欲求を達成してくれる大衆文学に惹かれるのではなかろうか?

結局、人はなぜ小説を読みたがるのか? 或いは小説に何を求めているのだろうか? という問いを考える必要があると考える。

小説を読むことが娯楽であるならば、このフィクション至上主義はアリだと思っている。この背景に厭世観、所詮この世は生きにくいとの読者層の深層心理が働いているのであれば、是非もなしであろう。

私は、純文学・大衆文学は絵画、ノンフィクション文学は写真だと理解している。更に細かく分類すれば、純文学は抽象画、大衆文学は漫画だと受け止めると、かなり分かりやすいと思う。

ノンフィクション小説の最大の欠点は、情報伝達と問題提起しかできないこと。ハッピーエンドはなかなか描けない。そういう事実はかなり本腰を入れなければ見つからない。それがなければ書けないのである。

重苦しい事実を突きつけられるよりも、自分の願望が達成できるものが良い、更に、現実離れしたおとぎ話の世界に入りたい。あり得ない世界に浸ってみたい。

このような社会のニーズがある限り、それに応えられる作品が生み出され続けることになるのだろう。そういう作品を、是非読みたいものである。

お読み頂き、ありがとうございました。

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