「争臣(そうしん)」がいなくなった弊害を考える
儒教を伝えるものは論語だけではない。孝経もその一つ。これは孔子とその弟子である曾氏の問答形式で書かれている。
この中に、争臣についての記載がある。争臣とは、主君を厳しく諫める家臣のこと。
この部分の記述を追っていくと、
と記載されている。
ものすごく縮めて意訳すると、「人の上に立つ者には、厳しく諫言してくれる者が必要。そういう者がいれば何とかなる。仕える者は、悪いことは悪いとキチンと諫めろ」ということであろう。
ただ、これは上に立つ者がしっかり諫言を受け止めることが前提となる。実はこの部分が、今の日本にすごく欠けているように感じている。
国においては、現首相が官房長官時代に異を唱えた官僚を更迭したと聞く。また企業においても、物言う株主からの要求で経営者が高い目標を掲げざるを得なくなった。その達成のために疲弊する社員を見かねて、その衷情を伝えた幹部社員が閑職に追われた等の話も伝わってくる。
結局、今の日本で争臣が報われることはない。ただパージされるだけになってしまっている。そういう状況では、誰も何も言わなくなる。それに起因して、国が傾いてきているのではないかと感じている。
その遠因には、今の時代において上に立つ人達が、孝経のような古典を読まなくなったことがあると考える。今の経営理論は、もっぱら西洋の学者が考え出したものが多い。それらがもてはやされる一方で、古来の価値感は軽視されるようになってしまった。
いや、そんな古臭いものは今の時代に合わない、との批判もあろう。では、その新しい西洋流経営理論を多くの会社が必至に取り入れているのに、なぜ日本の景気はいつまで経っても大して回復しないのであろうか?
コロナのせいと言うのは簡単だけど、本当にそれだけなのかは再検討が必要だろう。
物言えば唇寒しという状況で社員が保身に汲々となるような職場では、創意工夫と言ってもたかが知れていると思う。そういう企業の集合体である国の国力の伸長は、あまり期待できないと考えるのが自然ではなかろうか?
もちろん、数字を軽視しろというつもりはない。古典に込められた理想と数字を追う理論の、両方の厚みが求められているのだと考えている。
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