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生まれたての感動を共有できることを考える

今日の東京は、今年22日目の猛暑日になったそうです。朝、ちょっと涼しかったのでヤレヤレと思っていましたが、読みが甘かったことを率直に反省しています。それにしても、いつになったら本当に涼しくなるのでしょうか。

さて、……。

今朝の通勤時、電車の中で仲が良いと思われる高校生二人が私の前の席に座っていた。そして、電車の走行音で二人の会話はよく聞き取れなかったのだけど、片方が自分のスマホを操作してもう一人に見せた。

見せられた方も「へぇ〜」と興味深そうな顔をして画面を見ている。もちろん、向かいに座っている私にはそのコンテンツの内容がどのようなものかはわからない。でも、二人が同じ画面を見て感動を共有していることだけは分かった。

しばらくして「これって20世紀には当たり前ではなかったことだよな」ということに思い至った。

初代iPhoneがスティーブ・ジョブズによって世に紹介されたのは2007年1月のこと。それからスマホが急速に広がり始めた。

それまでも、ノートパソコンを屋外に持ち出す人はいた。それだけでもすごいことだったのだけど、当時のノートパソコンは軽量をうたうものでもやはり重かった。

また携帯電話の画面は小さく、かつ画質も荒かった。写メールのCMで芸能人のスクープ映像を送るシーンがあったのだけど、雑誌に掲載するにはデータ量が小さくてとても無理だと思われた。

でも、スマホは本当に軽く、気軽に外に持ち出すことができる。そこそこ大画面で画質も鮮明。通信速度は4G以上じゃないとキツイが、Wi-Fiがそれを補完するようになり、当たり前のように画面を見せて伝えることができるようになった。

このようなことを今の若い人たちは当たり前のように行なっている。でも、実はスマホが普及する前には当たり前ではなかったことをどれだけ知っているだろう。

これにより、コミュニケーションの方法が変わった。そして、何より自分が「!」と思ったものを速やかに友人や仲間に見せて共有できるようになった。これってすごいことだと思う。

生まれたての自分の感情の高まりをそのままにコンテンツを共有し共感できるというのは、それだけ大きな熱量を持った交流を生み出すことになる。これまでとは異次元のコミュニケーションであり、それを当然とするならば人の感性も変わっていくことが予想される。

反面、想像力で補うということが減るのも確か。行間を読むようなことも少なくなることが予想されるが、それは良くないと思っている。このバランスが問われることになるだろう。

お読み頂き、ありがとうございました。

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