見出し画像

可能性という言葉が内包する危うさ

今週のお勤めもやっと終わります。この瞬間が一番解放感に包まれる幸せなひと時ですね。

さて、……

あなたは可能性という言葉についてどう思っておられるだろうか。「子どもたちには無限の可能性がある」「我々の可能性に賭けよう」等など、どちらかというと前向きに受け止めることが多いのではないかと思っている。

この点、そのこと自体に敢えて否定まではしない。しかしながら、「そうだそうだ!」と応援もできないと考えている。その理由は簡単で、可能性と言っている対象は実現していないからである。

ちょっと抽象的な言い方をした。でも、可能性があると言う時に、可能性として想定されたことはまだ脳内に留まっているだけで、この世に実現し存在感を発揮している、ということはほとんどないはず。

ビジョンを持つことは確かに大切。でも、世の中ではやはり現実のものとして現れて機能を発揮することが大事だとされる。現実化することで価値が生じるし、逆に脳内に素晴らしいアイデアがあっても、そこにただあるだけでは社会で何の役にも立っていない。

そもそも可能性と言っている時点では、成否ともにあり得る場合がほとんど。成功するばかりではなく失敗に終わることも当然あり得る。しかしながら、可能性という言葉を用いる時に「失敗する」「不調に終わる」といった不都合なことはまず注目されていない。

この点で可能性という言葉は、多分に危うい表現であることを認識しなければならない。そして、可能性という言葉を連呼するほど地に足が付いていないことも見抜く必要がある。ふわっとしたイメージに乗せられてはならない。

前向きな言葉には、総論として反論しにくい。でも、それを利用して自説を通そうとする人はいる。

「子どもたちの無限の可能性を守ろう」と言われて反対意見を述べることができるだろうか? 難しいのは確か。でも、そこを利用される危険はゼロではないことも認識する必要がある。

また「可能性に賭ける」というのは美しいけれど、ちょっと考えれば「一か八かやってみる」のとイコールである。可能性という言葉を使うと、ものすごく確率が低くてもやってみる価値があると誤解させてしまう。

これが招いた最悪の結果というのが太平洋戦争である。当時もキチンと分析して、アメリカは日本の10倍の国力があり、まともに戦ったら勝てないことは分かっていた。

それでも、少しでも勝てる可能性があるなら、まだ国力差が開く前にということで開戦に至ったのである。その結果がどうなったかは改めて私が申し上げるまでもない。

運を天に任せるのは最後の最後にすべきこと。そこに至る前は、理屈と筋道をキチンと通さねばならない。それを怠れば、悲惨な結末が待つだけとなる。

お読み頂き、ありがとうございました。

読んで頂いただけでも十分嬉しいです。サポートまで頂けたなら、それを資料入手等に充て、更に精進致します。今後ともよろしくお願い申し上げます。