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死ぬ前にこれだけは……という本や記事の内容を完全には実施できないジレンマ

日が短くなるのは、何となく寂しいものです。暑さがぶり返さないのはありがたいことですが。

さて、……

昨今、お一人様が増えたせいもあるのだろう。身辺整理を進める本やネット記事が増えたように思う。そのこと自体は全く異論がない。

ただ「死ぬ前にこれだけは……」というアプローチ。意地悪な見方をすれば「これだけやったらもう死んでもよい」ということか? という突っ込みを入れたくなる。

1人で気楽に生きる。そして自分の意思だけで人生を貫徹したい。
この考え方から否定にかかる人がたまにいる。しかし、他人の人生に責任を持たない人間が軽々に口を出すことではないはず。そういう人には「あなたに何か迷惑でも及ぶのですか」と問いたくなる。

人は誰しも自分の思うように生きたいと願うもの。この願いは個人の尊厳に関わる大問題である。だから、横やりを入れる等もっての外だと考える。

もちろん、その願望が公序良俗に反する場合はこの限りではない。その場合は全力で止めに掛かって構わない。この点は歯切れが悪くなるがやむを得ないものと思う。

とはいえ、死ぬまで自由意思を貫いて生きたとして、本人は満足だと思う一方、残された者には何らかの手間が発生する。今を生きる人間の世話にならざるを得ない。

あの世には何も持って行けないし、この世に残すもので後々人に騒動を起こさせるべきでもない。無縁仏として取り扱われるのでなければ、死んで全てが終わることはあり得ないと考えるべきである。

これは自分自身、亡父の通夜・葬儀、一回忌、四十九日、初盆、一周忌、三回忌を経た経験から実感と確信を持って言える。

だからこそ、自分が思い通りに生きた後には、世話を掛ける割合をできるだけ減らす努力をすべきだと考えるようになった。

今を生きている者は、その後に残る手間に関わる負担について単純に忌避すべきではない。今それなりに生活ができていることを考え、先人の築いた社会の余徳を受け継いだものと見做して、前向きに担う気概を持つべきだろう。

いつかは死ぬと分かっていながら、つい面倒になって先延ばし。ありがちなことではある。でも、自分が亡父を野辺送りした経験からすれば、それがあの膨大な作業の原因になったことを骨身に染みて知っている。

それもあって、自分が送られる側に回ることを他人事だとは思えないし、その時に備えて、やるべきことは多々思い浮かんでくる。ただ神ならぬ身であれば、自分の死を予知できない。

正確に予知できれば、資金計画も厳密に立てられるのだけど、そうもいかない。完璧に備えられないジレンマがある。どうしても、死後に生きている人間のお世話にはなってしまう。

そういうことを頭の片隅に置くと、少し人に優しくなれるのではないかと思うのだが、強引すぎるだろうか。

お読み頂き、ありがとうございました。

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