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失われたオジさんの威厳

自分が新入社員の頃、職場の50歳代のオジさん達を見ていて、大人だなあと思っていた。それなりに威厳もあるし、私みたいな若造とは言うことが違うと心からそう思っていた。

あれから軽く30年以上が過ぎた。自分がその立場になって思うのは、「自分は当時とあんまり変わらないなあ」ということ。

もちろん見かけはかなり変わった。白髪も体重も、そして目尻の小じわも増えた。肌つやはまだそれほど衰えていないと思うが、中学時代に潰してしまったニキビ跡はしっかりシミとなっている。

しかし、内面は30年以上前の自分と連続体だとの自覚はあるし、当時思っていた程にはオジさんになっていないと思うのだ。

これは、個人差もあるだろう。同年代の中にも、私から見て変わったなと思う人はいるのだから。でも少なくとも私は、若い頃の感性が今になってもかなり残り、ものの見方や考え方のベースに差異を感じない。

このような経験から、実は昔の人も思っていたよりは老化していなかったのかも知れないという疑念を抱く。一方で今振り返って考えても、あの世代には今の我々にはない言葉の重みがあったと思うのだ。

どうしてだろうと自分なりに考えると、会社に対する意識の差に行き着く。すなわち、当時の会社は家族的だった。ゆえに、帰属意識が強烈にあったのだ。

それがため、家族的な集団の中で年齢や立場に応じて家父長的に振る舞おうという意識が醸成されていた。冒頭の「自分が新入社員の頃、職場の50歳代のオジさん達」の威厳と言葉の重みの源泉は、大家族の長老的地位からにじみ出たもの、というのが私見である。

しかし、今も会社にその家族的雰囲気が残っているかと言えば、そうではない。組織のフラット化、社内厚生行事の縮減、年功序列の事実上の解体等により、家族的な雰囲気はかなり薄まった。

加えて、情報の一般化もある。知る人ぞ知るような情報は、大幅に減った。昔は情報の持ち手も極めて限定されていた。情報を持つ人とそうでない人には明らかな差異があり、持つ人の言葉を皆が拝聴する雰囲気があった。

でも、今は違う。経営情報も含め速達性が重視されるようになり、かなりオープンに開示されるようになった。この情報アドバンテージの喪失も、威厳の喪失に拍車を掛けたと思う。

もっとも、グローバルスタンダードから考えれば、今の方が普通である。この流れにあらがうのは、鎖国でもしない限り無理であっただろう。

つまるところ、「個人としてやっていけるか?」を常に意識して地位に固執しないよう自制しているうちに、威厳の身に付いていない今の自分ができていると改めて感じている。

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