有観客開催決定の思考過程は心胆寒からしめるもの

来月開幕する東京オリンピック、有観客開催が決まった。

私自身は開催論者ではあったけれど、有観客は想定外であった。無観客で競技だけやって次に繋げば良い、という発想がその根底にあった。

昨日から東京は緊急事態宣言が解除、まん延防止重点措置となった。しかし感染者数は前の週を上回って増えつつある。この点から見れば、今後感染者が減る要因は見いだせない。リスクが低くない大会であることは疑いない。

では、そのリスクを誰が負ってくれるのだろうか? 残念ながら、開催の可否についてはIOCに決定権があると言った人達が、責任を負うとは思えない。

さすがに、この状況において「リスクの発現は自己責任」とまでは言われないだろう。でも、単に運がなかったでサラッと済まされそうな予感がする。

このような姿勢こそが、前々回も書いた美学と矜持に関わる問題なのだけど、それを言っても誰も聞いてはくれない。ただただ残念である。

IOCの意向への忖度が国益に叶うと考えたから開催を決めたのか? 赤字は国民に付け回して増税すれば良いと割り切るならそう徹すべきところ、その覚悟もないから有観客にしたのか? いずれも寒々しい思考過程である。

オリンピックが始まれば、国民は熱狂して経緯を忘れると楽観しているかの印象を受ける。「それはいくらなんでも 、それはいくらなんでも、ご容赦ください」と申し上げたいところである。

しかし、このように見下されてやさぐれた心のままで過ごす内に、総選挙が近づいてきている。当然、今の国民軽視を看過はできない。でも、だからといって任せられる政党が他にあるのか? で思考停止してしまう。

これまで派閥について、悪い側面ばかりが取り上げられてきた。しかし、党内での競争が図られ緊張感を生み出していた点では意味があったと考える。今はそのダイナミズムが失われてしまったことを、残念に思う。

まだマシだと思うところを選べば良いというご意見も散見されるけれど、そういう発想だと自分の気持ちが高まらず、強く推すこともできない。

これは決して、私1人だけではないだろう。

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