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学校教育で教える社会で役立たないこと

朝の冷たい雨に手がかじかむ中、駅まで自転車で向かいました。無事に着いて安堵です。午後からは雨も上がったので、助かりました。

さて、……

社会に出るとさまざまな経験をすることになる。そのための準備として学校教育があると言われているが、では本当に学校で教えていることは皆正しいだろうか。今回は、それについて考えてみた。

1.みんながお友達

幼稚園~小学校入学くらいまで、クラスのみんながお友達という教えをしていると思っている。でも、これは社会では嘘だと言い切ってよいだろう。

これくらいの世代でも、既にこの子とは合う・合わないという感覚は持っている。でも「先生がそう言うのだから」と自分の感情を押さえ込んで仲良くなろうとする。でも、成長するに従って「やっぱり無理」と気付く瞬間がやってくる。

精神年齢の高い子はこのジレンマにすぐに順応できるのだけど、真面目で素直な子は苦しむことになる。成長過程で修正が必要なはずなのに、この教えを学校教育の途中で「実は、合わない子と無理につき合わなくても良い」とは教えない。

これは「教え子を再び戦場に送るな」という先生方にしては、かなり不誠実ではないかと思う。生徒に大きな葛藤を強いる心の戦場に送り込むことになっているのだから。

2.みんなで話し合いましょう

クラスで何か問題が発生すると「じゃあ、みんなで話し合いましょう」ということになる。でも、話し合いで良い解決策が出てきたことってあるだろうか。或いは、話し合いで皆が納得したことってあるだろうか。

社会では、ネット上で論戦が繰り広げられて炎上すら起こるのだけど、話し合いで一定の合意にたどり着いた例を見たことがない。どちらも言いっぱなしから人格非難に移行するのがほとんどである。

国会論戦でも同様で、話せば分かるということがない。

もし私が子どもに教えるとしたら「話し合いをしましょう。でも、時間は限られているので、結論が出なければそれでやめましょう。そして、お互いに相手を理解できないことがあることを認めましょう」だろう。これを教えないのはいかがなものかと思う。

3.年長者を敬いましょう

これはまだマシなのだけど、年長者が皆敬われるに足る人格者かを考えればそうではない。舌切り雀に出てくるおじいさんは人格者だけど、おばあさんが人格者ではないのは明らか。なのにおばあさんまで敬えというのは無理がある。

ただ、長く生きている人は多くの経験をしているため、その経験に基づく発言には価値があることが多い。だから「年長者の発言に耳を傾けてみましょう」というのはあり得ると思う。

4.悪いことをする人には注意しましょう

これは論外。それをやってグループから外される子って実在するし、万一その行為によって教え子が命を奪われた場合、先生は責任を取れるのだろうか。

余程の関係性があって、初めて注意という行為が可能になることを無視している。

そういうことを平気で教える先生には、暴対法の対象団体の事務所に行ってお話頂きたいと思う。

以上、つらつらと書きました。
お読み頂き、ありがとうございました。

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