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ライトノベルという表現に含まれる後ろ向きな思い

今日は私の全人格をかけて、世界の中心で暑いと叫びたくなる1日でした。庭草に水をあげても暑さに弱っている印象は拭えず、どうしたものかと頭を抱えています。

さて、……。

最近、オンライン漫画を提供する会社が増えた。要はネットで漫画を読んでもらい、課金するシステムである。これ、最初の方は無料の場合が多い。

「ある程度読み進めてついてこれた読者=その先も読みたいと思う読者」という判断から、最後の方はほぼ課金される。

言い換えると、全編無料はかなりレアケースである。テレビやネットでCMを流す他、Twitterでもセンセーショナルな部分を取り上げたプロモツイートを流す。その元は何かでの回収が必須なのだから当然である。

これらの漫画を見ていると、多くが異世界・転生ものである。つまり、異なる世界に生まれ変わった主人公が、復讐や人生のやり直し等これまでの人生では果たせなかったことを成し遂げるものが多い。

これらの漫画は作者独自のストーリーもあるが、別の著者のライトノベルを原作としたものも増えている。

このこと自体は世の流れだと受け止めるしかない。ここで、それではライトノベルと表現されることで「本物の小説ではないという評価」を甘んじて受けるのか? という疑問を感じてしまう。

私のこの認識は辛辣かもしれない。しかしながら、著者の側において真剣に考えるべきことだと思うが故に、あえて問題提起した次第。

私の感覚であるが、異世界・転生ものって現世でのあれやこれやで降りかかると思われる重い現実を華麗にスルーできてしまうことで、現実逃避的な色彩が強くなると思っている。

ものすごくデフォルメすると、心中物に近くなる印象。「この世でうまくいかないから、あの世で結ばれたい」というのと本質が変わらない。

つまり、ぶっちゃけ「現世では話が展開しづらいので、別世界で自分の好きな設定をして、そこで主人公に冒険してもらいたい」という印象を受けるのだ。そして、現実との葛藤を避けた分、深みが薄くなるように思う。

「小難しいことを言わずに、読んで楽しめば良いのでは?」という意見もあるだろう。それは否定しないのだけど、そういう面倒は設定でクリアするものばかりだと読者も食傷して読む気が失せてしまうことを危惧する。

異世界は、作者の思い通りに設定できてしまうので、主人公の葛藤は減る。何でそうなるのか? と悩み苦しみ厚い壁に阻まれても挑戦をやめない主人公がいないので、応援する気持ちも弱くなる。

このあたりをもう少し改善しないと、いずれ人気はピークアウトするだろう。今を生きる人間と同じ目線に立てないのだから、それもやむなしだと考える。

お読み頂き、ありがとうございました。

読んで頂いただけでも十分嬉しいです。サポートまで頂けたなら、それを資料入手等に充て、更に精進致します。今後ともよろしくお願い申し上げます。