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「普通に生きて、そこそこ幸せ」は普通じゃなくなりつつある

「億万長者になりたい」「美酒美食を極めたい」「豪邸に住んで高級車を乗り回したい」人は今もいるのだろう。でも、大抵の人は普通の人生で十分だと考えている(ものとして、以下を書いている)。

サザエさんのカツオ君のような勉強嫌いな子であっても、社会に出て何とか生活できる。本来は、そうあるべきなのではないかと私は考えている。

ところが昨今の世相はどうか? 経済成長率が長く低調なままの一方で、少数の成功者が多くの富を得るようになった。時には、総取りに近い状態になってきたようにすら感じる。

相対的に日本の国力は下がり、低成長によりデフレからの脱却も果たせていない。「人並みで良い」「普通で十分」と言いつつ、過去に比べると今の水準の方が下がっているのではないか?

そのことにより、これまで余裕を持てていた人達もその余裕が失われ、人柄も人への接し方もキツい方に変わってきた。苦しさにより本性が露わになったとの評価もできるけれど、それはちょっと酷な気がする。

一方で、ネットが普及し誰でも簡単に情報を得られるようになった。このことにより、新しいものの創造は昔より遙かに容易になったはずである。しかしこのネット社会は、自分の競争相手が国内だけに留まらなくなってきたことも意味する。

「同じ仕事をもっとお安くやりますよ」というささやきが、ネット上にあふれている。単純労働の海外発注により工賃を下げるのも当たり前になった。

これは、発想を変えればその仕事を不特定の他者から奪うことでもある。だから、多くの人の収入は増えにくく、枠組みを作った者が富を寡占できてしまう。

またマニュアル化の徹底は、「自分がいなくなったらこの職場が持たない」との自負心を持つ人に、それが単なる誤解だと思い知らせる。働く者としての誇りは、低下せざるを得ない。

これもある意味、社会の世界標準化だと評価すべきなのかも知れない。でもそれは、失業率や犯罪発生率が世界と同レベルになることも甘受しなければならないということでもあろう。それが新しい「普通」なのだから。

分厚い中間層は、オゾンのように見えないところで社会を守るのに役立ってきた。新しい普通の世界標準化につれ、そこそこの幸せを得るのも難しくなる、というのは悲観的過ぎるだろうか?

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