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終戦記念日に向けての3週間(1)

帰宅時に日比谷線が運行停止になっていました。最初は飛来物対応だったのが信号確認に変わり、ホームの駅員用掲示板に「抑止」表示が出ています。

たまたま帰りが一緒になったテツの同僚から「信号に従わず、電車を動かすなの意味」だと教えてもらいました。

さて、……

8月15日は終戦記念日。77年前、7月26日に日本の降伏を促すポツダム宣言が出された以降の3週間は、実にさまざまなことがあった。

ものごとには、当たり前だけど始めがあれば必ず終わりもある。だから特に新しいものごとを始める際には、最後をどう終えるかまで十分考える必要がある。

それは戦争も同じ。そもそも戦争など始めるべきではないというご意見もあるだろうけれど、少なくとも日本が開戦した当時には、まだその意識が低かったのは否めない。この点は本稿の首題ではないので、話を先に進める。

今の我々からすると、1941年12月8日の真珠湾攻撃による太平洋戦争の始まりに目が向きがちなのだけど、これは認識が偏っている。それを遡ること10年前、1931年9月の満州事変の勃発以降、中国とはほぼ15年近く戦争状態であった。

1941年8月、アメリカが石油の対日禁輸を決定、それを受けて9月に帝国国策遂行要領を決定、アメリカ・オランダ・イギリスへの開戦方針が定められた。

当時、日中戦争は全くの膠着状態。解決の糸口が見つからなかった。その頃の考え方は、中国が降伏しないのは米英が裏から手助けしているからであり、それがなくなれば勝てる。そのために米英と開戦するというものであった。

本来は目の前の戦争終結に全精力を注ぐべきだと考えるのだが、更に戦線を拡大するという発想は、全く理解できない。しかも、国力の差もあり、アメリカを軍事的に屈服させることはできないと分かっていたのである。ドイツが勝てば何とかなると思っていた節がある。

こんなあやふやな根拠に基づき、それなりに頭の良い国の中枢を担う人達が集まって対米交渉方針を決めてしまった。希望的推測で日本が勝ち組に入ると考えていたから、当然、どう終えるかなんて全く検討されなかった。

日露戦争の時は、日本の国力ではここまでという見切りがあって、それを国の中枢を担う人達は理解していた。だから奉天会戦後にポーツマス講和条約の締結に全精力を注いだのである。

明治と昭和の指導者には、雲泥の差がある。勝ってもなおもはやこれまでと見極められた明治の指導者と、勝てていないのに勝つためと称して更に戦線を拡大、しかも拡大する戦線でも勝つ見込みが持てないのに他力本願で勝てると思い込んだ昭和の指導者。

昭和の方がより歴史に学べたはずなのに、と思うと暗澹たる思いがする。
(続きます)

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