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葬儀は誰のものか、誰のためのものか

キレイな秋晴れでした。風も穏やかで、こういう日が長く続くと良いと心から思います。

さて、……

今日は安倍元首相の国葬儀が行われた。朝からニュースで大きく取り上げられており、やや時間を取り過ぎにも感じられた。申し訳ないが他にもニュースはあるだろうに、と思った。

国葬儀を実施する理由について、岸田首相は以下の4つを上げている。

1.憲政史上最長の首相在任者だったこと
2.震災復興や経済再生に尽力したこと
3.日米同盟を基軸とした戦略的外交を主導したこと
4.諸外国で議会の追悼決議や服喪のほか日本国民へも弔意が示されたこと

これに対する私の印象は以下の通り。
1.長い在職期間はその通り
2.努力はされたと思うが奏功度合いは今一つ
3.これもその通りだが、功だけではない
4.人が不幸な亡くなり方をすれば弔意を表すのはナチュラルな感情であるものの、国葬儀である必然性は乏しい

以上を総合勘案すると、やはり国葬儀の実施には疑問符が付く。国論を二分してまでやらねばならないことかを考えると、更にその思いが深くなる。

だからこそ、私は国会で決めたらと提案したのだけど、聞いてもらえなかったのが残念である。己の無力を恥じるのみ。

本件、つらつらと考えると結局は今回のタイトルの後半に対する答えがハッキリしていないことに行き着く。

まず、葬儀は主催者のものである。一般的には喪主ということになる。国葬儀であれば国ということになるが、閣議決定をしている点、葬儀委員長をしている点を考えると岸田首相のものとなろう。

では、誰のためのものかであるが、これが意外と難しい。一般的にはケースバイケースである。ただハッキリ言えるのは弔われる故人のためではないこと。

意外に思われたかも知れない。でも、故人は葬儀に参加してはいない。更に葬儀を出さないと成仏できないわけでもないだろうし、故人のためというのは無理がある。

結局は主催者を含めた参列者のためのもの、というのが私の見解。参列者が故人に対する思いを整理し、かつ何らかの意図を達成する機会とするために葬儀が行われると考える。

だから、その機会を必要とする人とそうでない人はそれぞれいるし、双方の意見が一致することは稀なのだろう。ここで、国葬儀については反対者の方が多いようであり、では国がやる必要があったのか、という問いに戻ってしまう。

自分の主催する葬儀で、支持率の低下など自分のためにならない葬儀をすることになったとしたら、まさに以って冥すべきだろう。

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