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人はどう生きるべきかを改めて考えてみた

朝の冷え込みをじっと堪えて自転車を漕いでいます。体が温まる前に駐輪場に着いてしまうのが難点ですね。

さて、……

人はどう生きるべきか。このテーマを取り上げた著作や記事は、莫大な数がある。試しにネットで検索をして頂ければ、お分かりになると思う。

この問いを考えるにあたっては、前提としてできるだけ多くの人、できれば皆に納得して頂けるものである必要がある。少なくとも、前向きなものであらねばならない。人を不幸に陥れるなど論外であろう。

方向性として、人の役に立ち、社会に貢献し、あらゆる人の幸せにいくばくかでも寄与し、そのことに自身も充実感を感じて生きる。恐らく「べき論」であれば、こんな内容になるのではないか。ある意味結論は簡単に出る。

ただ、この次の段階となるアプローチで悩んでしまうのが実態ではなかろうか。つまり、どうすればべき論で言うような生き方ができるのか、である。

冒頭に書いた莫大な量の著作においても、多くはタイトルだけで留まることはない。そう生きられるためのハウツーに力点が置かれているように思う。

これは、読者の立ち位置が異なることや各人の希望や思想、志向等も千差万別であることからすれば、当然だろう。そして、だからこそいくつかの例示しかできないということでもある。とても全部を書き切ることはできない。

一方で、この手の著作にはほぼ書かれていないこと。それは人間の持つ邪悪な部分。本来は、そこにも光を当てるべきだろう。

ぶっちゃけ、人間には邪な面もある。人の不幸は蜜の味という言葉もあるし、事件が起こればそれを楽しむ野次馬根性も持っている。我が事のように受け止め、共に苦しみ涙を流し……という人はあまりいないのではないか。

「人の役に立ち、社会に貢献し、あらゆる人の幸せにいくばくかでも寄与し、そのことに自身も充実感を感じて生きる」レベルではなくても、そういう邪(よこしま)な部分を小さくし、弱めていくことも生き方としてはアリでそれなりに有意義ではないかと思うのだ。

ただ、この手の著作は、どうしても瞳をキラキラと輝かせた若者の教化を目的としているため、一般的に人間の邪な部分には触れていない。そこもケアすればより深みを感じられるようになるのだけど、スルーされてしまう。

高邁な理想を持っても、社会に出ると常にそれを意識した行動を取り続けることは難しい。場合によっては、生きているだけでも精一杯という状況にもなり得る。

その時には、邪なことはできるだけしないように生きるという選択もアリだと思うし、その方が身の丈に合った生き方をできると思う。

詰まるところ、自分が死を迎えた時に後悔しないかが大きな基準になると考えて良いのではないか。その時に満足できていれば最高だし、言い訳や不満ばかりであれば残念だと思う。多くはその間のどこかに着地するのだろうけれど。

お読み頂き、ありがとうございました。

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