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自己責任、なぜあなたがそれを言う?

雨、折り畳み傘を一度広げると電車の中での取り扱いに困るので、開く決断がしづらいです。

さて、……

自己責任という言葉。一時すごく世上に飛び交ったが、最近は余り聞かないように思っていた。でも、それは言葉にしないだけのこと。今も国民意識の底流にあると認識している。

この言葉を発するにあたっては、ちゃんと考えたのかの検証が必要だろう。例えば、海外のテロリズム組織に誘拐された人について「自己責任だ」と言い出す人がいるのだけど、これってどうよ? と思う。

まず、言い出した人に救出要請があったのだろうか。それはないはず。では、なぜそのようなことを言い出すのだろうか。

この者の救出について、一義的には国が考えるべきことであるはず。ゆえに、求められてもいない答えをわざわざオープンスペースであるネット上に開陳する必要があるのか? という疑問が湧く。

そして「自己責任」という以上は、国に対して「助ける必要なし」と言上しているのに等しい。全世界に対して、同胞がどうなっても構わないと発信する神経が素で分からない。

まず、そもそも人を拘束し、身代金など何らかの利益を得るための手段とする連中が悪いというのは当たり前のことだ思う。然るに、自己責任を主張する者がそのことについて言及していないのは、均衡を欠く。

そういう「悪」を黙認し、何らかの志ややむにやまれぬ思いを以て行動した人を自己責任だとして放置しようとする。これ、普通に考えておかしいと思う。

もちろん、拘束された側に落ち度がないとは私も思わない。自分の身を守る最大限の努力をしたのかについて、検証が必要だと思う。恐らく甘い部分があっただろうし、最大限の努力をしたとは言い切れない場合が多いと思料。

しかし、その落ち度がどの程度だったのか。殺されても構わない程の落ち度って基本的にはないはず。そうであれば、自己責任と主張して命を奪われても構わないと意思表示するのには謙抑的にならざるを得ないと思うのだけど、いかがだろうか。

特に求められていないにも関わらず、わざわざ同胞の命を軽んじた発言をする背景には何があるのだろうか。そちらの方が興味深い。

もしかしたら、変な振る舞いをする人間を密告しないと自分まで処罰される可能性があった、五人組制度時代の名残なのかも知れない。

「自分は悪くありません、悪いのはアイツです」と言わないと気が済まない遠因は、そんなところにあるのかも、とふと考えてしまった。

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