取り残され感

率直に表現すると、母の心境はタイトルの通りだと思われる。長生きするにつれて、同世代の友人知己や兄弟等が、次々と彼岸に旅立って行ったのだから、その感情はある意味で素直だとは思う。

でも、寿命はまさに授かり物。自分の命の長さまで、同調圧力に委ねる必要等は全くないはず。それでも湧いてくる「自分1人が取り残されてしまった……どうしよう?」という思いは、容易に恐怖に変わる。日本軍のバンザイ突撃も、生きて虜囚の辱めを受けずという戦陣訓の一節だけでなく、1人で生き残る怖さが、さらにその背中を一押ししたのではないかと考えている。

母に会う度に、とまではいかないものの、結構な頻度でそのようなことを言われるのは、子としてもあまり楽しいことではない。それに、そう訴えられても、なかなか有効な打ち返しの言葉を思い浮かべられない。

せいぜい「お迎えが来るまで生きるのが、人としての定め」だと言うのが関の山。残念ながら、それは奏功しない。

さすがに「自分の生きがいは何だろう?」と、こちらまで同じ思考法に引きずり込まれることはないものの、そう遠くなく訪れる自身のその時のことを、やはり考えてしまう。

発想を変えれば、「この世に何の未練もないくらい、よく生きた」とも言えるのだけど、それだと今度は希死念慮を引き起こしかねないので、それは言わないことにしている。

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