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そういう神様って信じられます?

今日も暑かったですね。東京は水曜日くらいまで雨が降ったと記憶していますが、水源の矢木沢ダム付近ではそうでもなかったらしく渇水になっているとニュースで放送していました。降って欲しいところに雨はなかなか降らないもののようです。

さて、……。

本稿は、あるX(元Twitter)上のやり取りを見かけたことが執筆の動機となっている。

少し端折ってその内容を書くが「家族が病に苦しんでいる。見ている自分も辛い」というtweetに対し、恐らくは信者と思われる人が「ぜひ神様におすがりしてみては」というメンションをしているのを見かけたのである。

弱っている人間に対して何ということを、という怒り💢も感じたのだけど、勧める側に悪意はない。だからこそ余計に苛立ちが増す。せめてそういう誘いに軽々に乗せられてしまわないことを祈るのみである。

この先を書き進める前に、いくつか概念の整理が必要だと考えた。

そもそも、
・神様とはどのようなものか
が最初にある。これって結構難しい問題をはらむ。人間が全てを把握できてしまう存在は神様ではあり得ないからだ。人知を超えた存在だからこそ神様なので、論理矛盾をきたしてしまう。

そこで、
・神様とはどのようなものだと思っているか
と書き換えることが必要になる。これなら各人の思いの問題にレベルが下がるため、論理矛盾をクリアできる。

一般的には「神様は人知の及ばない崇高な存在で、何でも見通し、遠くから人類を見守る存在」あたりになるかと思うが、いかがだろうか。

次に「神様を信じるか」に移るのだけど、これもよく考えねばならない。というのは
・神様の存在を信じられる
・神様の存在を信じ、かつ頼れるものだと信じられる
の二つがあると思うからだ。

言い換えると、存在を信じられるかの問いがまずあって、その次に存在は信じるけど頼れるか頼れないかの議論に進むということ。一般的には、神様の存在を信じられる人は、心のどこかで頼れるものだと信じてもいると思う。

ここまでで引っかかる部分がある人はあまりいないのではないか。でも「何でも見通し、遠くから人類を見守る存在」であるならば、なぜ冒頭のtweetの家族は病気になったのか、に対する答えが出なくなる。

ここで信者サイドは「信じれば救われる」と言い出すのだけど、これもやはり筋が悪い。自分の推しの神を信じる者だけをえこひいきをするのか? に対する解がない。もしこれを肯定してしまうと、崇高性が消え失せてしまう。

神学論争をするつもりはないのでこの辺りに留め置くことにする。でも、この手の話は介護を経験する際にもお誘いがあり得ることにご留意頂き、もしそのようなお誘いがあった際の自身の対応を考える際の踏み台にして頂ければ幸いである。

お読み頂き、ありがとうございました。

読んで頂いただけでも十分嬉しいです。サポートまで頂けたなら、それを資料入手等に充て、更に精進致します。今後ともよろしくお願い申し上げます。