声を出せる人に全面的に依拠する人がいる点に留意
暑いという言葉を言い飽きることがありません。率直な思いを言葉で表現するのは自然に出る類いのもので作為ではないので、飽きないのですね。
さて、……。
ネット上にはさまざまな声があふれている。かく言う私も一応はその一部だと言ってよかろう。
立場もスタンスも考え方も異なる意見は、読んでいて「大抵の場合」参考になる。たまに「何じゃこりゃあ」というものがあることも否定はしないが。
ただ、このように何らかの声をあげているのは、人に聞いてもらいたいとの意思が働いているから。
本来それは自然の感情であり欲求でもある。赤ちゃんが泣くのも自分が何かをしてもらいたいと思い、その思いを伝える手段として泣くことしか持ち合わせていないだけである。
このように自分の思いを伝えたいというのは生まれ持った欲求のはずなのだけど、成長するにつれて社会性が身に付き、空気を読んで口を閉ざすようになる。そして、場合によっては人に思いを伝えることを諦めてしまうこともある。
ネット上で極論や時に暴言と思われる強い言葉を発する人たちがいる。「そこまで言うか?」と思うような意見に対して批判的なコメントの方が多く付くのだけど、なぜかその極論や暴言を支持する人たちがいる。
全くの私見だけど、そういう人たちは言葉の内容そのものよりも強く言い切る姿勢に対して快哉を放っているのではないか。黙っている自身の鬱屈を、代わりに解き放ってくれる人として認識しているように受け止めている。
思いを自らの言葉で伝えようとしない人が少数かというと、そうではないと思っている。思いを言葉に変換するのは面倒だし、ある程度考えるための時間的経済的余裕が必要となる。
格差が広がる中で日々の生活に追われている人は、そういう余裕がなく言葉を発しにくい。でも鬱々とした気持ちを持ち続けるのは不快であり、発散するべく他者の強い言葉を求める。それが自分の真の思いかはこの際問わない。
経済がまだ浮揚しきらない今の世相で、結果として実態とは異なる形で「ネット上の声」が形成されてゆく。望ましくはないが、どうにもならない。
だから私たちは、それがいびつなものになっていることを意識して少し引いた視点で評価していくしかない。それが身を守る術ともなる。
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