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人権と人道、その違いを考えてみた

今朝は涼しかったのに、昼になって日が照るとすごく暑くなりました。外でちょっとした作業をするだけで汗が噴き出て往生しました。

さて、……

人権について何か言うと「しっかり学んでからモノを言え」と言われる。それは即ち、人権が人の生まれ持った感覚だけでは身に付かない、より高次なもの(=本能や通常の生活では体得できないもの)である証左ではなかろうか。

学ばねば身に付かないものであれば、こう理解する他はない。但し、人としてやってはいけない振舞いは太古からあった。例えば人を傷つけたり殺したりしてはならないとされる。このことについて疑う人はいないと一瞬は考える。

ただそれも、対象が敵になると変わってしまう。戦争において、敵を傷つけても殺しても構わないという考えは、まだまだ根強い。これは、人が生まれながらに持っている感覚レベルでの反応だろう。

だからこそ、こういう本能や通常の生活では体得できないものとして、博愛という概念が生まれた。赤十字は、敵味方関係なく負傷者を救護する博愛の精神に基づいた行動をしている。

やられたらやり返す、という応報の考え方では争いが絶えることがない。そういうことを真剣に考えた人が、博愛という概念を創り上げた。これも学ばない限り理解できないものであり、人権と同じだと言える。

とはいえ、このような学ばねば理解できないものが、皆が知っている公知のものとなり得るかについては一考を要する。それを当然のものとして良いかについては、恐らくダメだろう。

人道というのは、この本能や通常の生活でも体得できる人としての道である。太古から存在する「人としてやってはいけない振舞いを禁じるもの」と考えれば、人権よりは原始的である一方人種や宗教などの差異に影響されないレベルの規範として整理できる。

ある人が政治的な迫害を受けて他国に亡命を申請した。もしその人を本国に送還したら、捕まって死刑になるかも知れない。そういう状況であるならば、その人を本国に送還しない判断は、人道上の配慮である。

ただ、それが人権の高みにおいても同様に決められているとは言えない。あくまでも個別具体的な1つの事案についての判断であって、誰もが同様の対応をしてもらえる権利とまでは認識されていないからだ。

人権として世界に認められるためには、条約に基づくことが必須となる。このレベルで発効すれば、それは締約国において権利として認められる。しかし、そこに至るまでには結構な時間と交渉の労力が必要になる。

人権化を目指すのかなり難しく、実を取って人道上の取扱いとしての対応を求めることになりがち。その点では若干納得いかない人もいるだろう。でも、詰めようにも詰め切れないことが想像され、私はやむなしだと割り切っている。

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