美学と矜持が失われることを憂う
タイトルを見て、美学はともかく「矜持」って何? 何て読むの? という人もおられるかと(実は、私も知ったのは社会人になってからw)。
「きょうじ」と読みます。Repeat after me! とは言いませんがw 人として持つべき誇りを意味します。
美学も、厳密には「美とは何ぞや? を探求する学問」という意味と「自分が美と考える思考や行動様式」の意味があり、ここでは後者の意味を対象とします。
……という言葉の整理をして話を元に戻す。言葉そのものは知らなくてもよい。けれど、美学と矜持を持つことは人として大事で、とりわけ人の上に立つ人間にとっては必須のものだと考えている。
美学は、各人の価値観に依拠する。即ち、どのように考え振る舞うのが自分の価値観から見て美しいか、である。そしてその価値観を大切に思い、守るために行動する覚悟が矜持だと私は解している。
これは、人の生命や身体を守るといった普遍的な価値観でも同様。必要な方策を明確に示して、実現のために協力をお願いするとともに、呈せられる疑問にも丁寧に答えて理解を得るよう努めることは、美学に基づき矜持を持った振る舞いだと考える。
しかし、現実的にはどうか?
オリ・パラ開催に向けた政府側の答弁には、人の生命や身体を守る強い意思も具体的な対応も示されておらず、美学を感じない。あらゆる手段を講じて感染リスクを下げるという熱意も伝わってこず、矜持の存在が疑われる。
我々一般人の方も、ネットのインフルエンサーやオピニオンリーダーの強い言葉に付和雷同して、それをただリツイートして垂れ流す、或いはネット記事のリンクをSNSに流すだけの振る舞いが目立つようになってきた。
他人の価値観にぶら下がるのは、美学や矜持を云々する以前の問題だろう。しかしながら、自ら考えることを放棄した人は残念ながら増え続けている。
この風潮は、回り回って自分の存在意義まで低めてしまう。逆説的に、政府側の美学や矜持のなさを補完することにもなる。だから、自ら考えて個人の価値観を確立、それに基づき行動することは自分のためでもある。
それは面倒なことでもある。でも、そう考えて億劫がるばかりでは、いずれ取り返しが付かないことになるだろう。その時にはもう遅い。
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