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長生きは幸せかを考えてみる
暑くなりました。天気が良かったらもっと気温が上がっていたでしょうね。
さて、……
亡父は米寿まで生きた。母は卒寿を過ぎた。
日本は高齢化が進んでいると言われるが、2人とも平均を伸ばす側に立ったことは間違いない。では、それって幸せなことなのだろうか。
これはまず、幸せって何かを考えるべきなのだと思う。一般に長生きすると「めでたい」とされる。最近は数が増えたので取りやめになる自治体も多いと思うが、父は生前に居住する自治体から米寿のお祝いの記念品を受領した。
でも、父が幸せだったのかは謎である。会社員は、会社を辞めてしまえば会社での付き合いがなくなる。OB会・社友会と言った組織はあるものの、その活動で旧交を温める日数は1年単位で見れば数日程度となる。
私は父の死について、かつての勤務先に連絡した。社友会の決まりで社長と社友会から花輪は届いたけれど、それ以外には全く何もなかった。通夜葬儀には間に合わなくても、社友会報の逝去の欄に父の名も載ったはずだが、その後会社の誰からもコンタクトはなかった。
もっとも、父の方も会社時代の付き合いを積極的に維持しようとはしなかったのも事実。もっぱら日々家庭菜園に勤しんだ。家で食べるのはもちろん、当時は要支援状態だった母の介護ヘルパーさんにも分け与えて喜ばれるのが生きがいだった。
後は月に1~2回、私や姉からの電話を受けるくらいで、その他の膨大な時間をどうしていたのかという疑問はある。
母は既に何回か書いた通り、父の急逝後1年経つ前に転倒・骨折して歩けなくなり、治療のため入院した病院を退院後、老人ホームに入居した。不慣れな入院生活のストレスが起因となり認知症を発症、現在に至っている。
私と姉以外は母を尋ねる者もおらず、仮にいても母の記憶には留まらず、その日その日を過ごしている。
2人を見ていると、長生きすることは本当におめでたいことなのか、率直に疑問である。少なくとも、長生きすることが幸せに直結するとは限らないと感じる。
もちろん、早く死ぬことが望ましい等と言うつもりはない。ただ、日々進む老化について客観的に把握し、前々から備えておくことは大事だと思う。まだ大丈夫と流したい気持ちはグッと堪えねばならない。
長生きするからには、時代の変化にどこまでもついていくという気構えは絶対に必要だと考えている。そうしないと世の中との関わりはどうしても薄くなる。世界が狭くなっていく。
人知れず消えることを否定はしないが、それを本当に望むのか。そうでないなら人に意識してもらえる努力を続ける必要はあって、老いを理由に努力を放棄すると、長生きしても幸せからは遠くなると思われる。
お読み頂き、ありがとうございました。
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