見出し画像

コロナ禍で、人との関わり希薄化し、不安に思える人の幸せ

午後から雨になった。思ったより降りが早くかつ強く、干していた洗濯物も干さなかった方がマシな状態で取り込むこととなってしまった。

さて、……

タイトルは、ふと思いついて一首詠んでしまった駄作。新型コロナウイルス感染者数の減少が報道されているのだけど、私の周囲はそれほど減っていない。

職場の年齢構成の影響もあるのだろうけれど、お子さんが学校で感染して陽性判定を受け、家族である同僚が濃厚接触者となった。更に検査を受けてやはり陽性であった。そういう人が複数出てきているためである。

若者が飲み会で感染する例は減っており、フェーズが変わったことを実感している。

若者を取り巻く状況は、一時ほどではないにせよ改善が限定的である。大学の在宅授業がまだ継続していたり、客足の戻りの鈍さからアルバイトもままならなくなっていたりと、人との関わりの減少に対する不安・不満をよく聞く。

ただ、そういう感情が芽生えるのは、まだ人との関わりを求める気持ち、人との関わりに期待する気持ちがあるからである。そうだとすれば、その成育歴を前向きに受け止めるべきだと考える。

と言うのは、少なくとも若者達が過去において人との関わりに肯定的な感情・印象があるからこそ、その喪失に不安・不満を募らせていると考えるからだ。この理解は間違っているだろうか。

もし、人との関わりに否定的な感情・印象を持っていたとするなら、こうはならないはず。これ幸いと一人の世界を謳歌することだろう。そうなっていないのであれば、これは基本的には幸せなことだと思う。

タイトルの一首には、この思いが込められている(と言う程のものでもないが)。

ただ、決して表には出てこないけれど「人と関わらなくなってホッとしている」「周りからの同調圧力に合わせるのに疲れていた」「公然と一人でいられて嬉しい」という人もいると認識している。

不登校になる子の数も無視できない程度には増えているし、この点については深掘りが必要だろう。

ウイズコロナで経済を回すことが大事だというのは理解する。一方で、闇雲にコロナ前に戻すことが正解だとも思わない。人が人との関わりを求めるのは自然なものであると認めつつ、絶対の善とはしない価値感の構築が肝要。

人との関わりが減っても、社会をそこそこ回せる仕組みも整ってきた。これを活用して人との関わりにおける各自の落とし所を尊重し合える社会。その出現が待たれるところである。

お読み頂き、ありがとうございました。

読んで頂いただけでも十分嬉しいです。サポートまで頂けたなら、それを資料入手等に充て、更に精進致します。今後ともよろしくお願い申し上げます。