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人の価値が分かる人を考える

今朝、遅刻しました。バスが普段と異なりやたらと乗降客がいたことによります。また、路駐も普段より多かったと思います。通勤時間帯に路駐する人は、ちょっとくらいという気持ちを持たないで欲しいと改めて思うものです。

さて、……。

「開運!なんでも鑑定団」という番組がある。本人或いは先祖等のどなたかがある拍子にお宝を入手して大事にしてきたが、その価値をプロに鑑定してもらうという内容で、1994年の開始からざっくり30年近くも経っているご長寿番組である。

ものすごい高値が付くこともある一方、たった千円と鑑定されることもあり、鑑定結果の落差は大きい。そして、鑑定を依頼した人の出品物への思い入れや鑑定結果を聞いた際の反応もさまざまで、面白い。

骨董系になると「自分は目利きだ」と思って収集に励んでいた人が、バッタものを掴まされて全く目利きではないことを全国の視聴者の前で暴露される結果に陥ることも多く、それがまた見どころになっている。

他人のことを見て感心したり笑ったりしているうちは良い。でも自分は価値が分かるのかと自問自答を始めると、結構辛くなってくる。

ものの価値の鑑定は、それなりにポイントを学んで場数を踏めばある程度能力は身に付く。本物に漂う気品や深みといった言葉に表しにくい感覚も、段々獲得できていくはず。

では、人はどうか。人を見る目があるのかと言われたらどうだろう。言い淀んでしまう方が多いのではないか。

今までの人生で、誰にも騙されず傷つけられず生きてこられた人はまずいない。特にnoteに何かを書こうとしている人は(笑)。これは私自身も含まれる。

そしてその逆も然り。周りの人は「人を見る目」を持っているとあなたは思うだろうか。ぶっちゃけ「あの人、全然私のことを分かっていない」と悔しい思いをしたことってなかっただろうか。

人は社会的な存在であり、常に相対評価に晒される。だから、周りの人もあなたを意図して低く評価しようとしたわけでなくても、結果的に他の人よりも劣後した評価をしてしまうことはあり得る。これもある意味お互い様である。

そのことを理解できたならば、人の評価にそれほどの価値を見出せないはずなのだけど、やはりそれが気になってしまう。人間の業と言っても良いだろう。神ならぬ身であり、人の価値など本来的にわからないのが当たり前だと思うべきである。

戦国末期に外交僧として活躍した安国寺恵瓊は「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と信長の転落と秀吉の伸長を予言した。

でも、その彼も関ヶ原の戦いで西軍に与して敗北、六条河原に首を晒された。

人の価値が分かっても、世の中の流れまでは読みきれなかった。世の中はこんなものである。

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