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親の心子知らずを深掘りしてみる

「親の心子知らず」とはよく言われる。基本的に「親が子どものためを思っていることを、子どもは理解していない。(だから、親の意に沿わない行動をする)」ということを指している。

ただ、この前提となる「親が『本当に』子どものためを思っている」のか? については、よくよく考えねばならないだろう。

まず「子どものため」というのは、子どもの「利益」や「将来」のためであろう。ここで、利益や将来のためになる・ならないを判断しているのは誰か? それは明らかに親である。

では、その親本人が社会的にあまり成功していない場合、彼らの判断はどの程度信頼できるだろうか?

更に、純粋に子どものため「だけ」であろうか? 実は、親自身の利益や安心のため、が混ざっていないだろうか? 

シビアな言い方をすると「子どもが食うに困らないように」との願いは、一見子どものためのようである。でも、その実現により親も子の心配をしなくて済むようになるという面も否めない。

少し意地悪な見方かも知れないが、親の思いの裏には親自身が自分の安心を得たい気持ちがないのかと問われた場合、それを否定はできないだろう。

次に、子は親の思いを知ったら無条件にそれに従わなければならないのだろうか? 私は違うと思う。親の思いを知ったとしても、それが自分の考えや願いと合わなければ、断じてそれに従うべきではないと考える。

なぜなら、子は子の人格があり、親とは独立した存在だからである。子は親の思いを知っても、なお自分の心から湧き出る考えや願いを軽々に放棄すべきではないだろう。

このように深掘りしてみると、この言葉は「親の判断は正しい」「親の思いは無私」「子は親に従うべき」「子の考えや願いの価値は低い」といった根拠薄弱かつ古くさい儒教的な親子観が複合的に組み合わさっていることに気付く。

まして社会環境の変化が激しい今、時代の先まで読んだ「親の心」ではないだろう。となると、仮に親が自分のことを思ってくれているのは認められても、それが必ずしも最適とは言えない場合も十分にある。

だから子は、自分の人生を自ら選択しなければならない時が来るし、それによりうまくいかなかったとしても、胸を張ってその結果を甘受せねばならない。

それが本当の自立なのだから。

読んで頂いただけでも十分嬉しいです。サポートまで頂けたなら、それを資料入手等に充て、更に精進致します。今後ともよろしくお願い申し上げます。