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「ここまで」を悟った後の会社人生

サラリーマンの優勝劣敗、齢50の頃にはそれも明らかになってくる。

織田信長が謡曲『敦盛』の「♪人間50年~」の一節を好んだのは知られている。おそらく、自然体の人間の寿命はそれくらいだと考えてよいのではないか?

同期入社者を見ても、何人かは体を壊している。幸いそうならずに健康を保ち、かつ本人の現職務に精励する気持ちが変わらなくても、その次の職位(ポスト)の数は限られる。これは現実である。

周囲の多くの人は「この人はここまでだな」と見切った人に対してその興味を失い、まだこの先があると見込んだ人の姿を追う。これは、悲しいが人間が社会的な生き物と言われる所以でもある。

職位に限りがあるのはどうにもならない。会社は組織のスリム化による意思決定の迅速化を図っているので、増えることはないだろう。

このような状況があるのに、自ら競争からの戦線離脱を選んだかのような表現をされがち。だが、それは正しくない。主戦場が勝手に自分の持ち場から移っただけである。

自分が残った陣地で、後詰めとして補給や兵站を担当するようになったと捉える方が正しい。その業務も会社において必要なものであり、地味ではあるが会社に貢献している。

これは正論なのだろうけれど、ここでも社会性を意識してしまう。他者に劣後した地位に対し、当てつけのように「どうせ俺なんて…」と毒を吐く人もいるのは事実。でも、これは美しくない。

会社の職位に限りがある以上、トーナメントは不可避。それを知らずにサラリーマンになったわけでもないだろうに、と残念に思う。

このトーナメント、当然上の職位に上がるほどきつくなる。実力者であるから上に行くのだけど、だからこそ自分が負けることを想定できない場合が多い。

でも、意に染まぬ結果もやはり起こる。自分には全く関係ない「殿上人」の世界でのこととはいえ、抑えてもその人の全身からにじみ出る落胆の気を感じると、こちらも居たたまれない。

自分はあまり上に立ちたいと思わなかったがゆえに現状がこうなったとの自覚もあるのだけど、バイプレーヤーとして細く長く生きるのも決して悪くはないと(特に若い人たちに)お伝えしたい。

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