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辺野古座り込みに対するひろゆき氏のコメントに起因するやり取りについて思うこと

今日は、久々にお日様を見ました。しばらく天気は雨か曇りが続いており、鬱々とする日々が続いていました。それだけに日の光が窓から差し込むと、一気に気分が明るくなることを改めて感じました。

さて、……

標題のコメントについては、多くの方がご存知のことと思う。問題はかなりシンプルなはずなのに、なぜか収まりが見えない。私の認識は以下の通り。

①名護市の辺野古で米軍基地建設のための埋め立て作業が行われている。
②ここを今月初めにひろゆき氏が訪れた。
③しかし、その時に座り込み抗議の参加者が誰もいなかった。
④そこでひろゆき氏は、抗議日数3011日と書かれた掲示板について「座り込み抗議が誰も居なかったので、0日にした方がよくない?」とツイート。

①~③までは、抗議活動をしている側も否定していない。これに対して、抗議をしている側の反論では、
⑤埋め立て土砂の搬入に合わせて、1日3回搬入口の前に「座り込み」をしている。
とのこと。

この座り込み者がいると、当然土砂搬入ができない。機動隊員などが
⑥座り込み者を都度排除して、土砂運搬のダンプカーが基地側に入る。
ということが行われている。

①~⑥までについて、客観的な状況を映像的に思い描くことはできる。ここで④と⑤について、それを座り込みと評価できるか、或いは座り込みではないが抗議行動ではあると評価できるかの違い。本来はここが論点のはず。

しかしながら、ここから先は、この論点に直接関係しない思想信条や発言の仕方、果ては発言者の過去の行動等に関わる主張が山のようになされていて、収拾つかない状況。それもあなたがご高承の通り。

もちろん私が収拾できるはずもないのだけど、もし私見を述べろと言われたら、私の言語感覚として座り込みをしているとは言えない、しかし抗議行動はしていると考える。

ことほどさように、人はベースとなる考え方によって、世の中の事象に対する見方も受け止めも異なることが分かる。そして、完全に理解しあえることは、多分ないのだろう。

但し「人の声を聞け」と言うからには、そういう「あなたも人の声を聞くべき」であることは申し上げておきたい。「話せば分かる」「問答無用」の五・一五事件を再来させてはならないからだ。

かみ合わない議論に人間の業を見る思いもある。こういう人間の哀しさを感じる時、脳裏に浮かぶのは以下の言葉。

「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」

長崎市 遠藤周作文学館 「沈黙の碑」http://www.city.nagasaki.lg.jp/endou/monument/

お読み頂き、ありがとうございました。

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