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『空白』-主観と俯瞰-

NETFLIXで『BLUE/ブルー』という映画を見た。監督は吉田恵輔。主演は松山ケンイチ・東出昌大・柄本時生といったところか。友人や映画ファンの間で評価が高かったし見たかったのだが、公開当時はコロナ禍の影響もあって劇場では見逃した。ので、とても早い配信に驚いた。

この早い配信にはいろいろな理由があったと思うが、9月23日から吉田監督の新作『空白』があったのも大きいと思う。せっかくだし、『BLUE/ブルー』が良かったので見ることにした。少し調べてみると、過去作のいくつかはストリーミングで見ることができるし、触れやすい。おかげで『空白』を見た後、すぐに見逃していた『愛しのアイリーン』や『ヒメアノ~ル』も鑑賞できた。

現状、僕は4作見ることができたわけだが、この監督の映画はなんとも痛い。いろんな意味で、僕の瑕に触れてくる。ほぼ直接的といっていい。比較的4作の中では見やすい内容でもある『BLUE/ブルー』ですら痛みを伴った。運営している映画系Podcast(「三度の飯より1ニーソン」といいます)でどう取り上げたものかというくらい実体験に触れないと話せない気もした。困った作品群であると思う。その中で特に困った感があったのは『空白』だった。親の無理解、学校、友人の交通事故死、財政難のサービス業の店長職とそれに伴う万引き問題、パワハラ的な諸々等々、実際に経験した事柄が多いと予告編からも読み取れたからだ。果たして耐えうることができるのか。自分にはとてもハードルが高い。でも見たい、という気持ちが強かったので映画館の座席予約もした。で、前日なんかは変な緊張で眠剤を飲んでいてもあまりよく眠れなかった。

主観的鑑賞と俯瞰的鑑賞

たぶん僕は、人よりは映画を見ている方だろう。そのせいか、映画のジャンルによって主観的に見るスイッチと俯瞰的に見るスイッチを切り替えることができるようになった。主観的は登場人物たちに感情移入して見ることだが、俯瞰的は物語の全体像を眺めて、登場人物たちの行動などを少し外から見るようにする。そうすることで人物には入り込まず、「物事」に集中することができる。社会派な映画や戦争映画なんかはこの方法で見ることが多く、少し自分で映画との距離を置くことでショックのハードルを下げる。たまにホラー映画でもこれをするが、その場合は失敗することが多い。なぜなら脚本によって差が出てくるからだ。

主観的な鑑賞は、登場人物の誰かに力点を置くので、感情移入している場合がほとんどで、一定の満足感を得られる。俯瞰的な場合、その感情移入が分散されるので、物語や物事、事象が面白くなければまったく楽しめないというハメに陥る。が、なんとなく自分にはこのスイッチが重要だなぁと昔から思っていて、『空白』では俯瞰的鑑賞にスイッチして、それが上手く機能した。ということは、つまり、役者の演技と脚本と編集がすばらしかったのだと思う。

『空白』

『空白』では、感情移入したくない登場人物が多かった中、特に寺島しのぶの”狂気”が厄介に思えた。ボランティア活動をする独り身のおばさん、という役回りなのだが、何かとスーパーの店長を演じる松坂桃李にお節介をやく。そのお節介の度合いがひどく、押し付け具合がすさまじい寄っかかり方で、正義感の押し売りほど面倒なものはないと思わせておきながらも、それが個人的なある感情に突き動かされている。この辺はわかりやすい描写も相まって、古田新太とまた違った厭なもの、”狂気”を感じさせるのが面白い。ようは距離感がおかしいって話なのだが、そのおかしさはほぼホラーといってもいい。つまり本作は古田新太という怪物と寺島しのぶという怪物に襲われる松坂桃李というトライアングル構造でよくできているなァと思った。救いがない、逃げ場がない。いやぁ、これはひどい。

また、映画の余白、すなわち「空白」部分が本作はとても重要で、見えない場所で誰がどんなことを行っているのかが明白にされていない。登場人物も鑑賞している我々も、結局のところ憶測でしかものが言えない部分がいくつかあり、それらがすべて物語にとって大切な個所となっている。ハッキリと見たい、というのは人間の欲望として当たり前で、本作はそこを刺激してくる。見たいのだが見せてもらえず、あくまでも憶測で物事や心理状態を判断するしかない。この「空白」の作り方も見事としか言いようがない。

怪物の顕現化

吉田監督は日常に潜む怪物が顕現化してくる描写が上手い。それは『愛しのアイリーン』にしろ、『ヒメアノ~ル』にしろ顕著だが、オリジナル脚本である『BLUE/ブルー』にもあって、東出演じる小川の”狂気”は怪物といってもいいだろう。そして、この顕現化は誰にでも可能性があるということを容赦なく見せてくる。だからどことなく厭だし、それでいて見始めると目が離せない。見終わったあと、「良かった」という多幸感と「厭なものを見た」という嫌悪感が同時に襲ってくる。この余韻は、今の映画界においてとても貴重だと思う。

個人的にはここまで4作見て、そのどれもが「良い映画だけど、何か厭なものを見た」という感じ。それだけに癖になる。比較的見やすいはずの『BLUE/ブルー』ですらそうなったのだから「えげつない映画を撮る人」という印象が強い。

だから思う。

次作も見たいし、過去作も見たい。あくまでも俯瞰的に。

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