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『新型コロナから見えた日本の弱点』~はじめに

新型コロナの流行拡大に伴い、日本でも18日、特措法の改正案が国会に提出されることになりました。「私権の制限につながる」といった懸念もある法改正について、いま私たちは急ぎかつ冷静に考えなければなりません。その際、拙著『新型コロナから見えた日本の弱点 国防としての感染症』が何かのヒントになりそうな気がしたので、2021年最初のnoteでは本書の「はじめに」を全文公開することにしました。

「僕はリバプールで育ち、ハンブルクで大人になった」

ビートルズのメンバーの1人、ジョン・レノンの言葉だ。

ドイツ、ハンブルク市のレーパーバーンは、無名時代のビートルズが演奏していたことで知られる繁華街である。1960年8月17日、クラブ「インドラ(Indra)」で初めてのライブを行なったのを皮切りに、不法滞在でドイツを強制退去させられるまでの約2年、ライブ活動を行ない人気を博した。
このレーパーバーンから100メートルほど南のエルベ川沿いの一画に、新旧2つのBSL4(バイオセーフティレベル4)ラボを持つベルンハルト・ノホト熱帯医学研究所がある。BSL4ラボとは、エボラ出血熱やラッサ熱など最高レベルの危険性を持つ病原体を扱うための安全基準を満たした研究実験施設のことである。

1900年、ベルンハルト・ノホト熱帯医学研究所は、ドイツ最大の港湾都市ハンブルクに各国から持ち込まれる熱帯病の管理を目的としてつくられた船員・港湾病院に始まる。その後、病棟機能はすべて5キロほど北側の高級住宅街エッペンドルフにあるハンブルク大学病院に移され、現在では、渡航ワクチン外来以外の臨床機能は持たない熱帯感染症の研究施設となっている。

19世紀、インドやアフリカとの交易が盛んになったヨーロッパは、コレラの流行に見舞われるようになった。1800年代初めには、英国人医師エドワード・ジェンナーによって考案された天然痘ワクチンが経験的に使用されていたものの、微生物によって伝染する病気である「感染症」の概念は長らく仮説だった。

その後、ドイツ人医師ロベルト・コッホは1876年に炭疽菌を培養、1882年に結核菌を発見した「感染症学の祖」として、一躍ドイツ(当時、プロイセン王国)のスターとなった。

1892年、19世紀中頃から小規模なコレラ流行を経験していたハンブルクにコレラが流行すると、対策の指揮を執るべくハンブルクに派遣されたコッホは、ハンブルク市議会に徹底した公衆衛生対策を提言した。

1892年のコレラ流行では、1832年、1848年などに起きた流行とは決定的に違っていた事情があった。それは、1884年にコッホがインドでコレラ菌を同定し、コレラも感染症の一つであることが確定したことで、流行拡大を防ぐための有効な手段がはっきりと分かっていたことだ。

しかし、海外との貿易が盛んなハンザ同盟都市だったハンブルクは、プロイセン王国から独立した「自由都市」であり、自治権があった。商業ブルジョワジーに牛耳られた議会は、コッホら医師たちの助言を無視し上下水道の整備にかかるコストを渋り、検疫や消毒の徹底によって貿易が滞ることを恐れていっさいの公衆衛生対策を取らず、予防はすべて自己責任とすることを議決した。

「わたしはヨーロッパにいることを忘れてしまう」

インドでコレラを見つけたコッホがこう嘆いたという決議により、ハンブルクは6週間で約1万人のコレラによる死者を出すことになった。有効な公衆衛生学的対策を講じた他のヨーロッパの都市は、コレラが入ってきても流行はせず、ほぼ無傷だったにもかかわらず。

これが公衆衛生史に名を馳せた「大失策」、ハンブルクのコレラ流行である。

ベルンハルト・ノホト熱帯医学研究所は、この経験を反省して作られた施設だ。

以来、ハンブルクではコレラの流行を一度も見ていない。
そして今わたしは、このヨーロッパで3番目に古い熱帯感染症研究施設であるベルンハルト・ノホト熱帯医学研究所で働いている。

2020年2月、コレラを克服したハンブルクに、新しい病原体が上陸した。2019年に中国の湖北省武漢市で発生した新型コロナウイルス(COVID‐19)だった。

この街の新型コロナの第1号感染者は、奇しくも、ハンブルク・エッペンドルフ大学病院(UKE)の小児科医だった。2月末、イタリア旅行から戻って発熱した医師を検査すると、新型コロナ陽性だった。濃厚接触のあった医療スタッフや外来患者は自宅隔離を命じられ、入院患者は経過観察となった。UKEには、ベルンハルト・ノホト熱帯医学研究所の入院病棟もあり、わたしのチームメイト3人も「UKE COVID‐19チーム」の一員として、患者の治療に当たることになった。

2週間後、ドイツは大きな決断を迫られていた。

決断の中身は意外にも、ハンブルクで128年前にコレラが流行した時とよく似たものだった。

ドイツ各地で始まっていた新型コロナ流行の予防策として、自己責任に任せるのではなく都市機能のすべてを麻痺させる「ロックダウン(都市封鎖)」を行なうかどうかだった。

わたしたちは、家族を訪ねる、仲間と食事をする、恋人に会う、買い物に行く、音楽や芝居に行くといった行動を、誰かに許しを請うまでもない当たり前のこととして、自由に行なっている。

しかし、これら当たり前の行動は、民主主義の中で個人としての自由を保障されているからこそ行なうことができる。一方、個人としての自由は、それを行使することが公共の福祉を脅かす場合には、国家など公的権力による制限を受けることもある。

ロックダウンは、国家による個人の自由の制限を意味した。

1892年のハンブルクのコレラ流行は、ハンザ同盟の豪商たちが、インドやアフリカとの貿易の自由を、公共の福祉を目的とした公衆衛生政策よりも優先させたがために起きた悲劇だった。医者たちの間では、今回も公衆衛生政策が個人の自由よりも優先されるのは当然という考えが強かった。

しかし、東ドイツで育ったドイツのアンゲラ・メルケル首相にとって、公的権力によって個人の自由を制限することは、秘密警察「シュタージ」による監視と密告の社会を思わせた。公的権力による安易な自由の制限は、国民の自由を存立基盤とする現代の民主主義国家においては絶対に行使すべきではないものだった。

その思いの強さは、いつもならドイツと経済的なつながりの強い中国を否定することのないメルケル氏が、香港や台湾の問題などになると厳しいコメントを発することから見ても明らかだろう。

一方、メルケル氏は、東ベルリンの科学アカデミーで研究者として働いていたという異例の経歴と物理学の博士号を持つ科学者である。

彼女がアドバイスを仰いだのは、ウイルス学者でベルリン・シャリテ大学病院ウイルス学研究所の所長、クリスティアン・ドロステン氏だった。

若き日のドロステン氏は、2003年、わたしが勤めるベルンハルト・ノホト熱帯医学研究所で、後述するシュテファン・ギュンター氏と共にSARS(重症急性呼吸器症候群)ウイルスを発見した人物として知られている。

3月17日にEUの新型コロナ対策会議の議長に指名されたドロステン氏は、感染者は少なく医療キャパシティにも余裕のあったドイツも、ウイルスが広がる前に今すぐロックダウンすべきだと強くアドバイスした。

3月18日、世界中で高く評価されたメルケル首相の演説と共に、ドイツは全国的なロックダウンに踏み切った。

「こうした制約は、渡航や移動の自由が苦難の末に勝ち取られた権利であるという経験をしてきたわたしのような人間にとって、絶対的な必要性がなければ正当化し得ないものなのです。民主主義においては、決して安易に決めてはならず、決めるのであればあくまでも一時的なものにとどめるべきです。しかし今は、命を救うためには避けられないことなのです」
「わが国は民主主義国家です。わたしたちの活力の源は強制ではなく、知識の共有と参加です」

EUで最初にロックダウンに入ったが医療崩壊に歯止めが利かず100万人当たり約572人の死者を出したイタリアとは対照的に、ドイツの人口当たりの死者数は、100万人当たり約108人と西ヨーロッパ一少なかった。
もっとも、ロックダウンをしなかった日本の死者数は、100万人あたりたったの7・5人だったのだが(6月20日時点)。

2020年の5月、空っぽの羽田空港からマスクをして深夜の飛行機に乗り、減便のため恐ろしく接続の悪いドイツの国内線を乗り継いで、わたしはハンブルクに戻ってきた。

2月初めから仕事のため2週間の予定で日本に戻っていたが、新型コロナが日本で流行し始めたのを見て、上司にもうしばらく日本滞在を延長して流行を見届けさせてくれないか頼んでいたのだった。

以前、わたしは世界保健機関(WHO)の西太平洋地域事務局で、鳥インフルエンザと新型インフルエンザの対策に携わっていた。新興感染症と呼ばれる、人類が未経験で誰も免疫を持っていない、ワクチンも医薬品も存在しないウイルスの出現を監視したり、流行に対応したりするチームでの仕事、いわゆる「パンデミック傾向のある病気(pandemic-prone disease)」を扱う仕事である。

日本に帰国する直前の1月末、ベルンハルト・ノホト熱帯医学研究所で毎週行なわれている抄読会(論文を読んで内容を紹介し、検討する会)は、わたしの担当だった。世界に先駆けて中国から発表されたばかりの超一流医学雑誌『ランセット』と『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』に掲載された2つの論文を選んで紹介した。

新ウイルスの出現に、WHOでの経験や再生産数の話を交えながら少し興奮気味に話すわたしに、同僚のひとりは「でも中国の武漢の話だよね。直行便も飛んでいないハンブルクには関係のない話でしょ」と笑った。別の同僚は言った。「実効再生産数は、アウトブレイクの進行につれて変わり続けるものだから、麻疹やインフルエンザと比較して言われている今の数字は当てにならないよね。新型インフルエンザを覚えている? 結局、感染者は何人で、基本再生産数はいくつなの?」

実効再生産数とは、ある病原体が1人の感染者から平均何人にうつるかを示す数値で、流行状況の目安だ。実効再生産数が1なら平均で患者1人が接触者1人に感染させることを意味し、1以下なら流行は収束に向かっていることを意味する。ドイツをはじめ多くの欧米諸国は、人口当たりの感染者数ではなく、この実効再生産数に注目し、ロックダウン(都市封鎖)の解除や再ロックダウンの目安としてきた。これに対し、基本再生産数とは、ロックダウンやワクチンなどの予防手段を一切取らない場合、1人の感染者が何人に感染させるのかを示す数値である。この時点では、同僚のどちらのコメントも、もっともだと思っていた。

* 

4月7日、日本でも緊急事態宣言が発表された。

わたしは、2月の終わり頃から東京や大阪のテレビに時々出るようになっていたが、東京と大阪の間の移動も制限されるようになり、一面ガラス張りのテレビ局の控室から咲き乱れる大阪城の桜を見たのを最後に、大阪に行くこともなくなった。それからは東京のスタジオから中継で大阪のテレビに出たり、東京のテレビ局の番組であっても、局内の別室や別スタジオから中継で出演するようになった。

4月の終わり、ドイツはロックダウンの段階的解除を行なうことを発表し、日本では、5月6日までとされていた緊急事態宣言が、最初から決まっていたかのように延長と決まった。

ところが、5月5日、大阪府は独自の基準で緊急事態宣言を解除することを発表した。

それを聞いたわたしは、5月いっぱいまで毎週出演することの決まっていたテレビ番組に出演辞退を告げ、ハンブルク往きの飛行機をとった。
全国の実効再生産数は4月10日時点で0・7、東京では0・5。緊急事態宣言の効果を待つまでもなく東京を含むすべての都道府県で、流行は明らかにピークを過ぎていた。

これからは番組でも新型コロナを、医療の問題ではなく、社会や経済の問題として扱うことになるだろうと判断したからだった。

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久しぶりのハンブルクは季節が巡っていた。

夜に支配されていた街は、昼の支配する街に変わり、昼はいつまでも終わらなかった。3カ月前、乗り換えの飛行機を待つミュンヘンの空港でマスクをしているアジア人を奇異の目で見ていたドイツ人は、空港からの電車の中、全員マスクをしていた。

しかし、湖ぞいの公園で太陽を楽しむ人たちの中に、マスクをしている人はいなかった。ハンブルクには、街の中心にある大きな湖「アルスター」に加え、いくつもの小さな湖や沼がある。街じゅうに運河が張りめぐらされ、世界一橋のある街としても知られている。晴れた日には、カモメと見まがうばかりのたくさんの白いヨットやカヌーが浮かび、流行りのスタンドアップパドリング(SUP)を漕ぐ人でぶつかり合うほどの混雑だ。もちろん、水の上でマスクをしている人はいない。

ランニングをする人までマスクをしなければならなかったり、休校で居場所を失って外で遊んでいた子どもたちをとがめ、挙句の果てには通報したりする大人までいた日本と比べると、大らかな景色だった。

外国人として暮らすドイツでは、不安や不便も多い。それでも、日本の新型コロナ対策のどこかが違っているような気がした。

この本は、そんな日本や諸外国の感染症への備えや対策を「国防」の観点から書いた本だ。新型ウイルスによるパンデミックを、医学や科学、せいぜい経済の問題としてしか考えていなかった人たちにも新しい発見があればと願っている。

最後に、アンゲラ・メルケル首相は、ジョン・レノンとは反対に「ハンブルクで生まれ、ベルリンで育った」人物であることを書き留めておく。

ハンブルクで生まれたメルケル氏は、生後数週間で牧師である父に連れられ、東ベルリンに移住した。今はベルリン中心部にある、有名な美術館の前の古い石造りのマンションに暮らしている。

知り合いのドイツ人ジャーナリストに案内され連れて行ってもらったことがあるが、入り口には、他の部屋の住民と並んで夫の姓が書かれたパネルがあり、アフリカ系の背の高い守衛がひとり立っているだけった。「本当にここがメルケルさんの家なの?」と聞くと、「そうだよ」と何事もないように教えてくれた。

時代を超え、人を超え、感染症と深くつながってきたハンブルク──。
この街で、感染症と人との歴史を感じながら、「感染症から人や国を守る」ということについて考えるこの本を書けることを幸せに思う。

6月20日 いつまでも日の沈まない夏至のハンブルクにて。

「新型コロナから見えた日本の弱点 国防としての感染症」(光文社新書、2020年)はこちら。

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