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言葉を自在に操れる人になりたい。

ネットで文章を公開する理由

20代半ばから、頭や感情の整理のために考えていることを手帳に書き出すようになった。 自分の考えを書くとそれなりにスッキリした気分になるし、達成感を得られる。

でも、表現が曖昧だったり、話の展開が不十分だったりするせいで、暫く時が経った後で読み返すと、理解できない部分があった。
書いてあることは全て自分で考えていたはずのことなのに、だ。

折角、時間を使って書き出してるのだから「いつ読み返しても理解できる文章」を書きたいと思うようになった。現在の自分の視点ではなく、
未来の自分が理解できる文章=客観的に読んで理解できる文章だ。

客観的に読んで理解できる文章を書くには、そもそも他人に見られる前提とするのが手っ取り早い。 その前提で文章を書くと、話の展開に気を付けるのはもちろん、 読み手に理解してもらうために、考えを具体的に表現しながら丁寧に文章を作らなければ、というプレッシャーが掛かる。 

私の国語力

それでも、文章をネットに書くということに、私はかなりの抵抗があった。
なぜなら、私は自他共に認める程、国語力が無い人だから。
小学生の時から拗らせてた上に、怠惰だった私は文字通り、“席に座っているだけ“の小学生だった。
聞くだけで理解できる授業内容をわざわざノートに録る必要性を理解できなかった。算数は理解すれば何となく解けるけど、漢字は座っているだけでは覚えられない。
毎日課せられる音読の宿題だって、何故、1回読んだ文章を何度も声に出して読む必要があるのか分からなくて、気が向いた時に月に1回やるくらいだった。
(毎日欠かさず音読をした妹との国語力の差は後に顕著になったので音読を推奨します。(笑))
漢字は覚えようとしない、板書も写さず、音読もしなかった私の国語の成績は小学校から最悪だった。

中学からは流石にまずいと思い真面目に授業を受け始め、板書を写す習慣を必死で習得し、テストに出題するから覚えろと言われたことは覚えた。
学校の成績は改善されたけれど、暗記だけで国語の基礎力がなかったから
結局模試になると、毎回散々な結果を収めていた。

日本語は無理だと、逃げるように英語科に入学した私は、日本語でレポートを書く機会が極端に少ない大学生活を送った。英語も基本の文章力は無論、必要だが、最初に決まった型を叩き込まれたので、日本語でレポートを書くより幾分書きやすかった。そして、日本語のレポートだと日本語ネイティブのため、内容の深さが注視されるが、英語で書く際は、非ネイティブというハンデがあったため、そこまで高度な文章を書くことを求められていなかったことも書きやすいと感じた理由だと思う。

その国語力で社会人になった私は、新卒入社した会社で、
「ミュージカルのような日報で、アホすぎて逆に元気が出てきた。明日の日報も楽しみだ。」 と課長にドン引きされるほど酷い研修日報を書いた。
複数人の日報を見てる人に酷評されると、嫌でも文章力が欠如しているのだと再認識せざるを得なかった。

今年の目標

そこから6年、大量の赤ペンを食らい、やっとの思いでビジネス文書の書き方を習得した。
しかし、総合的な国語力が低い私は文章力だけでなく語彙力も欠如していた。
今でも人と話していて”亜種”だとか、”辟易する”とか言われると意味を理解できず苦笑いして受け流しながら、他人との語彙力の差を感じる。
文章を書いていても、表現したいことはあるのに適切な言葉が自分の中から出せなくて、歯痒く思う。

だから今年は、多くの本を読み、人の話を聞くことで語彙をインプットして
”~な感じ”のような雰囲気で曖昧に伝えたり、”とても”、”凄く”のような
幼稚な表現を避けて、適切な言葉で言い換えられるように、アウトプットしたい。

#今年学びたいこと


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