ケアマネの終戦記念日

 高齢者介護に関わり始めた25年前に聞く『戦争』は生々しかった。語り部たちが居なくなることは、平和を願う力が衰退するようで焦る。

 認知症のハルさんは、照明弾の光を見て、小学生ながらも、こんなスゴいものを持っている国には負けるなぁと思ったけど、絶対に大人には言えなかった。照明弾に照らされないように、稲穂がたわむ田んぼに半身を浸かり身を隠し夜を明かした。

 ミヨコさんは、東京大空襲の時、兄に追い立てられ避難したが、その兄は家を守る為に戻り帰らぬ人となった。19歳の青年だった。

 サトさんは、引揚船で幼い娘に羊羹をなめさせながら命を繋ぎ帰国したが、貧しさからその娘を病で亡くした。

 あさこさんは、特攻隊の給油地で10代を過ごす。特攻前夜、隊員の為の晩餐を支度し、トランプ遊びの相手をし、絹の敷布で寝床を準備した。朝になると、両手を振って『お兄様達。行ってらっしゃい』と見送った。
 今でも毎朝、『お兄様達、ありがとう。お兄様達のお陰で今日も生きています』と空に手を振っている。

 外地に出征した経験を持つ、95歳の桃太郎さんは、軍歌を歌いながら子供みたいに号泣する。
何があったのかは、家族にも語らない。
 
 爆撃機の操縦士のマサルさん。出撃したが、沈みゆく戦艦を前に、援護を諦め引き返した。彼は常に名誉よりも爆撃機の乗組員の命を最優先し、守り抜き、任務を果たさなかった汚名を背負う。

 病院勤務の頃のこと。
 鋭い眼つきと険しい峰のような背中のたけしさんが歩く姿はゴジラみたいだ。その夜は背中が痛むと5分おきにナースコールする。夜勤の私は、『たけしさん。私も疲れた。ここに座って休むね。私、35歳だけどその頃、たけしさん、何してた?』と背中をさすりながらベッド横に座り込む。
『シベリアに抑留されてた』
 それ以上語らない。背中を撫でながら、『よく生きて帰られましたね。』と伝えた。 
それから、ナースコールはピタリと止んだ。

 語り部達が、今頃、空の彼方で会いたい人に会い、身体も心も痛みから解放されていますように。

そして、非力な私に平和を願う力を貸して下さい。

 毎月のモニタリングで聴いていた語り部達の声を想い出す。
ケアマネの終戦記念日。



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