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クメール・ルージュとその余波①

 かつて「クメール・ルージュ」という勢力がカンボジアを支配した。クメール・ルージュは「赤色のクメール」という意味で、シハヌーク王政を打倒した親米のロン=ノル政権との戦争(カンボジア内戦)を経て、1975年~1979年の約4年間、ポル・ポトを長とする共産主義政権「民主カンプチア」として君臨した。

 1975年4月、カンボジア内戦を制したクメール・ルージュは首都プノンペンに入城する。混乱する人々を鎮めようと、国教である仏教の第二位の高僧であったフーオッ・タット師は国営放送局に出向いた。師は仏教研究におけるカンボジアの第一人者でもあり、内戦下でも人々に教えを説いていた偉大な人物であった。師はこれからクメール・ルージュとの交渉を開始すると民衆に宣言した。すると、クメール・ルージュの兵士がやって来て放送を中断させ、師を放送局から局前の広場に連れ出した。そして集まった民衆の目の前で彼を殺害したのである。これはクメール・ルージュの残忍な性格を垣間見れる一つの出来事である。

 彼らが政権を握ったことで、カンボジアに内戦時より遥かに大きな惨劇がもたらされた。ポル・ポトを筆頭とするクメール・ルージュは約170万人~300万人の国民を虐殺した。これは当時のカンボジア人口の1/4~1/3に相当する。私が2023年3月にカンボジアを訪れて得た情報や写真も踏まえ、クメール・ルージュの行ったこと、現在までカンボジアに与える影響を伝えたいと思う。

世界遺産アンコール・ワットの銃痕:ここはクメール・ルージュの籠城の地でもあり戦場であった。写真中央の穴はカンボジア内戦もしくはポル・ポト政権敗走時にできた銃痕と考えられる。

ポル・ポトの政策

 政権を握ったポル・ポトは、原始共産主義という考え方に基づき政策の舵を切った。原始共産主義とは、人々の暮らしを原始的なレベル(自給自足の農業生活)で統一することで、階級・格差のない社会を実現するという考え方だ。行政においては、野党を解散させ、政敵は処刑し、独裁体制を築いた。そして人々を農業だけに従事させるべく、あらゆる職業や資格、通貨を廃止した。知識層と呼ばれる弁護士や医師、学者や教師などは虐殺の対象とされ、S21等の収容所へと送られた。虐殺は徐々にエスカレートし、知識人の家族・親族も対象となった。終いにはメガネを掛けているという理由だけで知識人とみなされ処刑される事態も起きた。

 ポル・ポトは米の生産を増やすよう命令を出し、人々は過酷な労働を強いられた。それまで農業とは関係ない生活を送っていた人々が米作りを出来るはずもなく、凶作となった。子どもは6歳で親元を離れ、働かなければならず、少年兵も存在した。クメール・ルージュは自らをオンカー(組織)と名乗ったが、オンカー上役も一定程度の功績を残さなければ重い処分が下されるため、人民に虚偽の自白を強要させ、処刑して更なる虐殺を招いた。また他国との国境には地雷を敷き詰め、これは外部からの侵略、内部からの人民・反逆者の逃亡を防ぐ役割を果たした。

 徹底した情報統制によりカンボジア国内の様子を国外から伺い知ることは難しかったのか、諸外国は政権をカンボジアの代表として認め、国連総会にも出席できた。政権内部でも収容所の存在や人民の大量虐殺について知らない者もおり、S21に関しては政権から離反した革命軍がプノンペンを解放した後にその実態が明らかになった。次の記事ではS21の詳細とキリング・フィールドについて撮影した写真を交えて説明する。


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