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クメール・ルージュとその余波②

S21(トゥール・スレン)

 そこは昔、高校の校舎として使われていたが、ポル・ポト政権下においては拷問と虐殺のための収容所となった場所である。プノンペン市内に位置し、元は高校である為か、敷地はそれほど広く感じない。下の図はS21を上から見た簡単な図である。四角い建物は校舎で、中央に吹き抜けの細長い小屋がある。人々は目隠しでトラックに乗せられ送られて来た。そして自らの処刑の誓約書にサインさせられた上、処刑された。処刑は鈍器による撲殺が中心で、その後、死を確実にするために首を切るという方法が採られた。銃殺は銃弾の節約の為、また大きな音を伴い、処刑の状況が外部に漏れる為避けられた。この収容所だけで12000人~20000人の人々が虐殺された。

※S21は今日、トゥール・スレン(毒の木の丘)虐殺博物館として一般公開されている。

 ①:クメール・ルージュから離反した革命軍がプノンペンを奪還しS21に到達した時、遺体はたった14体しか残されていなかった。オンカーたちは虐殺の証拠の隠滅を謀ったのだ。ここ①では遺体発見当時の写真が掲げられており、遺体が放置されていたベッドも当時のまま残っている。14人の遺体の身元は分からず、収容所の広場にて埋葬されている。

 ②:拷問が行われていた装置である。上部から吊るされた者は地面に置かれている汚物の溜まった壺に頭から入れられる。これを繰り返し行い、人々に虚偽の自白を強要させていた。この拷問は夜間に行われていたという。

拷問の装置

 ③:ここには収容者の独房が残っており、レンガ造りの部屋と木製の部屋に分けられている。各部屋には排泄のための器が用意された。もし床を汚してしまったら、床が綺麗になるまで舐めなければならなかった。部屋の壁には収容されていた人たちの落書きが残っている。

元校舎の廊下。部屋の内部の撮影は禁止されている。

 この収容所から生還出来たのは僅か12人であった。今回、最後まで収監されていた7人の1人、Bou Mengさんにお会いすることが出来た。Bouさんは今年(2023年)で82歳になる。S21では"570"の番号を割り振られ扱われていた。奥さんと共にS21に収容されたが、奥さんは生きて帰れなかった。ある日、二人の男が労働部屋にやって来てBouさんを連れ出した。Bouさんは自分の最期の日が来た、きっと死ぬのだと覚悟したが、二人の男は解放軍でBouさんを助けに来たのである。建物の外では依然として、ポル・ポト派と革命派の銃撃戦の音が鳴り響いていたという。1979年1月7日のことであった。その後1981年頃からS21の虐殺の歴史を後世に伝える活動を始め、現在に至る。Bouさんと別れ際に握手を交わした。Bouさんの握手はとても強かった。「一度人が入ったら出られない場所」とも呼ばれたS21から生還し、再びその場所に戻り、歴史を伝え続けている方がいる。私はこの事実に胸を打たれた。
 この施設の所長であったカン・ケ・イウは別名「ドッジ」で知られる。彼は政権崩壊後20年余り行方をくらませたが、拘束・終身刑を言い渡された。彼の裁判にはBouさんも出席した。2020年にこの世を去った。

 トゥクトゥクのドライバーさん曰く、クメール・ルージュによる惨劇を象徴する場所がカンボジアには二ヶ所あるという。一つはこのS21。もう一つはチュンエク虐殺センター。別名「キリング・フィールド」である。記事が長くなったので、次回この場所について解説する。

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