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百合という2文字で表現できない時代がもうすぐそこまできてる 【百合論考 vol.00】

百合論考 vol.01 公募記事 執筆者募集開始

1年半の充電期間を経てvol.01の制作が始まりました。
vol.00が発行された2020年と今2022年では、また百合界隈の雰囲気や流行が変化していると思います。
そんな中であなたが感じたこと、考えていることを自由に論じていただく場です。
少しでもご興味があればお気軽にご連絡ください。



 以下の文章は『百合論考 vol.00』に掲載されたものに修正を加えたものである。
少しでも興味が出たら上のリンクを踏んで、他の方の原稿の概要を見てほしい。きっとあなたに合うものがあるはずだ。


「あれ、この作品って百合なのかな? 何か違うような気がするんだよな。アイツから薦められたけど百合が分かってないな~無理だわ~。」

「いーや、百合という2文字で表現できない時代がもうすぐそこまできてる! 愛と共に百合作品の多様性も尊重して認め合って、お互いの百合観で争うのはもうやめにしよう。愛と百合観は、雲だ。いろんな形がある。時を進めよう。」

「うるさいな~キャラ芸人! 何勝手に時進めてるんだよ! 大体何でいつもみたいに時戻さないんだよ。」

「時を戻してばかりで今目の前のことから逃げちゃいけないんだ! 人には誰しも思い出したくない過去のひとつやふたつくらいあるんだろう。だけどそういう過去の積み重ねがあるから今があるんじゃないのか。そうだろう? 時を戻してばかりじゃ前に進めない。平和な世界に向かって、共に歩みだそうじゃないか。」

 

1.この茶番は本稿の概要である


 2019年のM-1グランプリで3位を獲得したお笑いコンビ『ぺこぱ』風の茶番を書いて文字数稼ぎをしたのだが、ぺこぱのネタを観たことがない方には分かりづらかったかもしれない。
ぺこぱ(ツッコミ:松陰寺太勇、ボケ:シュウペイ)は多様性を認めて肯定するツッコミをしていくという、新しい漫才スタイルを発明したコンビである。
ここから1ページ使って、ぺこぱの漫才革命へと話が脱線していくため、百合はどこへ行ったのかという方は次頁の『2.百合観は千差万別』まで飛ばしていただきたい。
話が戻るのか逸れるのか分からないが、彼らのネタ『プロポーズ』に次のような掛け合いがある。

 

シュウペイ「突然なんだけどさ、プロポーズの練習したいなと思って。」

松陰寺「ピューウ♪(口笛) 良いじゃねぇか。じゃあ俺が女をやってやろう。ねぇ!大事な話があるって、なに?」

シュウペイ「わたし……あなたのこと、愛してるの!」

松陰寺「えっ?」

シュウペイ「結婚して、おくんなまし~!」

松陰寺「いーや、女同士が結婚したって、別にいいじゃないか! そうだろう? 人それぞれいろんな形の愛があるんだ。どうもありがとう。」

日本テレビ系列(2019年1月1日放送)『ぐるナイおもしろ荘!日本で一番早いネタ祭!誰か売れて頂戴!』より引用

 

 この漫才を初めて見たとき、今までの常識が覆されたような衝撃を受けた。
ツッコミが女性役という設定のコント漫才で、ボケも女性役で被せてきたときには、「なんで女同士で結婚しなきゃいけないんだよ! おかしいだろ!」や「俺が女って言ってるんだからお前は男だろ! ちゃんとやれよ!」等のツッコミが今までの一般的な漫才の形であると思う。

このように的外れなことを言うボケに対して、それを常識的な視点から強く否定したり指摘したりするツッコミで笑いを取るという漫才の形が、ここ何十年間と今まで続いてきたのである。
マジョリティが常識であり強いとされている世の中であるからこそ、ボケの言動をおもしろおかしく見せることができて、ツッコミはそれに対して観客や視聴者目線で指摘して共感を誘うことで笑いを取る。
いつの時代もツッコミはボケより強く上の立場でなければ漫才が成り立たず、ボケに常識外れの変わった格好をさせてツッコミが常識的なスーツを着ることで、世の中の縮図が可視化されるのである。


 しかしこうした中で、ぺこぱのようにボケに対してツッコミは対等の立場で接してその多様性を認めて肯定していって、そこにメッセージ性を含ませながらも人を笑顔にすることができる漫才の存在に魂が揺さぶられた。
ツッコミをする松陰寺はボケのシュウペイを認めて肯定していくのと同時に、集団心理に囚われたある種洗脳的な固定観念や世の中で普通とされている常識を備える/備えたつもりでいる観客や視聴者に向けてツッコミをしているのだと思う。
これをノリツッコまないボケと言ってしまうのは、やはり前時代的な漫才の価値観やシステムから見た言葉であると思う。

もちろん、先ほどの女性同士の結婚に言及するようなメッセージ性のあるツッコミばかりではなく、漫才として成立させるためのボケとも捉えられるようなツッコミフレーズも確かに台本には組み込まれている。
普通ではない漫才のシステムの中でツッコミがボケのようなフレーズを言うのも普通ではないが、こうした笑いのエッセンスを加えていくことでメッセージ性ある台詞にも引き込まれていくのだと思う。

後のインタビュー記事で、女性同士のカップルの方がパートナーシップ証明書を初めて交付されたというニュースを松陰寺が見たときに、「いや女同士が結婚したっていいじゃないか!」という言葉が思い浮かんだとのことだった。
そのニュースを放送してることは恐らく、テレビ局として多様性を認めていきますよというアピールのように思えるのだが、そこに特別視して取り上げている時点で多様性として認めているのではなく、明らかに異例として取り扱っているようにしか見えないだろう。
そこに松陰寺は違和感を覚えて当然のようにツッコミのフレーズが出てきたのだろう。
こうして多様性を認める時代を迎えた今だからこそ、このような漫才スタイルが誕生し受け入れられ共感を得られるようになったのだと思う。


 長々とぺこぱの漫才革命について語ってしまったが、そろそろ本題に入ろうと思う。

まずこのタイトルが百合を語る趣旨の冊子の中で、もはや百合という言葉を真っ向から否定するようなものに思えてしまうかもしれないが、決してそういった意図は無いため安心して読んでいただきたい。 

  

2.百合観は流動的で変化し続ける雲だ


 百合って何だろう。この問いかけは百合好きにとって永遠の命題である。
その答えは各々の心の中にのみ存在しており、その解法と答えは皆当然少しずつ異なっていてそれぞれが正しいものだと思う。
さらに、この答えを理解してもらえるように明確に説明できる方は非常に少なく、かく言う私も上手く言語化できる自信はない。百合作品を受け取ったときには、その作品に百合を見出したことに理屈では説明できない何かがあり、これは百合だと心で感じたときにはもう既にその作品は百合作品になっている。

百合は頭で考えるのではなく、心で感じ取るものだと思う。
こうしたことから、百合を何か共通した定義で形を作って百合というものを明示することは非常に難しいのである。


 百合の定義や範囲について百合好きの間では様々な解釈があり、こうした人の解釈や意見に対して自分のものと異なっているとつい反論したくなることがあるかもしれない。
しかし、私はこのどれもが正しくて、それは自由なものであるべきだと思う。

百合に対する思想や信条ならびに百合の定義や範囲などを、ここではまとめて個々が持っている『百合観』と名付けておく。
各々が異なる百合観を持っているということは、百合愛好家たちが皆理解しているはずだが、それでもなお百合界隈では炎上の火種が絶えることはない。
(この『百合観』という言葉は、確認できた範囲で十数年前から存在していたが、何を内包しているものなのかは明記されておらず、さらに原典を見つけることができなかったため、本稿ではあくまでも仮置きした定義として認識していただきたい。)


 『あの作品は百合ではない。あれは女同士の友情でしかない。』
『非百合を百合だと拡大解釈している厄介な百合オタクは、作品にとっても作者にとっても害である。』

様々な作品の感想を調べていると、かなり稀だがこういった意見を目にすることがある。百合と友情の間にはどういった差異があるのだろうか。これらの解釈の違いも度々衝突を生み出す火種となっている。
このことについては、各々の百合観に基づいて百合を感じたものがその人にとっての百合であり、その時の自分の心を信じていくべきだと思う。それなのに何故、自己の百合観を正義として他を排斥していってしまうのだろうか。

これには自分の百合観を信じたい、百合観の自由を侵すものから守りたい、などのような強い意思ゆえの行動であると思うが、こうした自分の考えを信じて貫いていく姿勢は確かに素晴らしいものである。
しかし、百合作品を嗜んでいる方が各々信じている百合観をお互いに否定することなく、その多様性を認め合っていくことも必要な考え方であると思う。
もちろん、百合というものを真っ向から否定しているものや、百合の根幹を揺るがし百合文化を脅かすもの、さらには性的マイノリティへの配慮が足りていないような意見に対しても、それを多様性として認めるべきという訳ではない。

百合を愛する者同士が多様な百合観をお互いに尊重していくことが現代に必要な価値観であることと共に、ここまで大きく発展してきた百合市場を衰退させないための一つの鍵となっていくということを主張したい。

 

 

3.進化し続ける百合を追いかける


 百合という言葉が広く一般的に定着し始めた頃は、『女性同士の秘密の花園』のような禁断の関係を描いたテーマのものが多い傾向にあったため、このような作品こそが百合作品と解釈・判断している方もいるかと思う。
しかしこの10数年で、国内における性的マイノリティや同性愛に対する認識は徐々に深まりつつあり、女性同士の関係に禁断・秘密という単語を結び付けることに今では一抹の違和感を覚えるような時代を迎えた。


 これと共に百合市場は急速的な拡大の時期を迎え、多種多様な百合の形や作品が次々と生まれてきた。
こうした時代の流れの中で、『百合』という言葉は明確に定義付けされたことはなく単語だけがずっと宙に浮いたまま曖昧に使われ続けてきたと思う。
今までに何度か定義付けがされてそれが広まったり定着したりしたことはあるかもしれないが、時代の流れと共に百合が背負っているものは流動的に変化し続けてきた。

そのため、この言葉を今改めて定義付けをしたとしても既に遅く、さらには個々が定義した百合観を明示することも難しくなってきている。この数十年もの間、同じ百合という単語を使い続けてきた中でずっと同じ意味・同じ使い方・共通した解釈でいることの方が難しい。
古い言葉を使い続けているからこそ、個々の解釈の齟齬から綻びが生じてしまうのは当然ではないだろうか。まさに、百合という2文字で表現できない時代がもうすぐそこまできているのである。

 

 

4.レゾンデートル・オブ・ザ・リリー


 先述した通り百合市場がここまで拡大してきたのは、国内で性別と愛の多様性を認める動きが浸透してきたことも少なからず影響していると考えられる。
もちろん、このことが直接関係あるとは言い切れないが、多少なりとも間接的には影響を及ぼしているものだと思う。

多様化する愛の形について特に普段から意識して考えておらず明確に意見を持っていないような方でも、潜在的にこうした多様性を認めようとしている心を持っていることから、間接的に百合作品を受け入れることに繋がっていっているのではないかと思う。
また、こうした性別や愛の多様性を認めていくことを伝えるのに、百合作品は媒体として適しているのだと思う。
決して多様性を軽んじて捉えて、性的マイノリティの方々を商業的に利用しようとしているわけではない。
同性同士の恋愛や同性を好きになるという気持ちがこの現実の世界にごく普通にありふれたものであるということを、フィクションでありファンタジーを表現する漫画や小説等の世界がこちらの世界に物語を通じて訴えているのである。


 こうした中で現代の百合作品は、先ほど述べたような女性同士の禁断の関係性を描いたテーマのみならず、非常に幅広くなっている。
有名なカップリングジャンルだと、年上のお姉さんと女の子の関係を描いた『おねロリ』や、働く女性同士の恋愛を描いた『社会人百合』など、挙げるとキリが無いくらい多様化しているが、こうしたジャンルで表すのが難しいほどの百合が誕生し続けている。
しかし、こうしたジャンルに無理矢理括り付けることで、作品の本質的なテーマを掩蔽してしまうリスクすら存在している。


 巷で散見されるのが『男性向け百合』と『女性向け百合』という分類である。
前者は、女性同士の性行為(キスや愛撫など)を過剰にフィーチャーして性別としての女性を官能的に描くことを、後者は女性同士の恋愛を当事者目線から心情表現などをリアルに描くことをテーマとしているなど、それぞれの違いや分類方法が存在しているようである。

しかし、百合作品には女性同士の恋愛をテーマとしているものがあるにも関わらず、こうした性差別的なジャンル分けは百合の本質的なテーマに反しており、多様性の時代を迎えた現代において非常にナンセンスであると言わざるを得ない。
もちろんこれらのジャンル分けは、情報共有をする上でゾーニングとしての役割を果たしていることもあり、作者や出版社がターゲティングの意味を込めた販促として利用していることもあるが、事前情報を与えてしまうことで作品を買うときや読むときにバイアスをかけてしまうリスクが内在している。

さらに、世の中には性自認が生物学的な性別と一致していない方や、女性的な男性・男性的な女性というような中性的な方、性別の認識がない無性別な方、性が揺れ動いて定まっていない方など様々な性を持つ方がいる。
現に私は生物学上男性であり性自認も男性でありながら、世間一般的には女性的とされている性格および趣味趣向であったため、『男なのに』や『男らしく』という枕詞を付けて色々なことを言われることにモヤモヤした思いを抱えてきた。
こうした多様な性別の形を認めていって、女性同士の恋愛も当たり前の世界を作り上げていくことは百合作品が持っている主題であると考えられ、特定の性別に指向性がある作品などという表現は今の時代にはそぐわないものだと思う。

誰が誰のことを好きになっても良いのと同じように、誰が何を読んでも良いのであって、それは個々が自由に選択できて認められるべきである。
であれば、こうした性別で区別するような身勝手で差別的なジャンル分けは、もう止めるべきではないだろうか。
(ここで少年漫画・少女漫画という分類は差別的なのかという議論については少し論点がずれており、さらに既に優秀な先行研究があるためここでは省略する。)

こうしたジャンル分けにとらわれないくらい多種多様な百合作品が生まれていて、どういう作品を好きでいても、誰が何を読んでいても、その人がどんな百合観を持っていても、その多様性を認め合っていくことがこれからの百合の在り方を守ることに求められていることだと思う。

 

 

5.リリー&ピース


 多様性を認めるということについて、百合作品が特に好きだという方であれば、持っていてほしい価値観であると私は強く思っている。

百合作品に描かれている女性同士の恋愛に対して肯定的であり、それを現実とは異なるフィクショナルなファンタジーだと思って楽しんでいたとしても、現実の世界には実際にレズビアンやバイセクシュアルの方がいるということを忘れてはいけない。
決して、常に意識しながら作品を楽しむことを強要するような意図はない。
そうした方々が周りの目を気にしながら、女性同士で恋愛をしていることに対して、周りの他者が否定的な目で見ることは間違っている、ということについては少なからず賛同できるかと思う。
つまり、百合を心の底から愛しているのであれば、現実でもそれらを認識して存在を認めていてほしいのである。


 これは男性同士の恋愛についてもそうあるべきだと思うが、実際問題として男性同士の恋愛に対してはホモフォビアな思考が強く根付いているのが現実である。
しかし、女性同士なら良いけど男性同士は何となく無理、生理的に受け付けないなどといった、短絡的且つ感情的な理由が通用して良いような世界では、性別や愛の多様性に対する問題はいつまで経っても、真の意味での解決には到達しないままだと思う。

もちろん、男性恐怖症でそもそも男性の存在が怖くて、そんな男性同士の恋愛など考えられないという方もいるかと思うが、そうした方にも無理に受け入れてほしいとは思っていない。
私は異性愛者でありながら女性恐怖症で、女性から好意を向けられると反射的に恐怖を抱いてしまう複雑な性質を持っている。
こんな私だが心の底から純粋な気持ちで百合作品を愛していて、性別を問わず同性愛について認知し受容する姿勢でいたいと思っている。
主張が曖昧なのは、正しい言い方が分からないからである。
確固たる気持ちはあるのだが、人の気持ちを完全に理解するなんて不可能であるため、完全に知らないものを非当事者が簡単に受容するなどと断定することができないでいるのだ。


 こうしたことに対して、異性愛者の男性が女性同士の恋愛作品を読むなんて気持ち悪い、女性恐怖症なのに百合作品が好きだなんて醜いし汚らわしい、などのような理由で拒絶・差別されてしまっては私という人間を構成している一つの成分が破壊されてしまい、もはや私が私ではなくなってしまうのである。
多様性を認めることの大切さや尊さを、主題または副題として内包されている百合作品を嗜む者なら、多様化していく世の中とそれを認めていくことに対して肯定的な姿勢でいてほしい。
そこに、その多様性を認めるだけでなくそれを受け入れてほしい、百合作品好きなら当然BL・薔薇作品も好きでいてほしい、などということは含まれていない。
あくまでも、こうした多様性がそこに存在しているということを、ただ認めてほしいだけなのである。
性別や愛の多様性のみならずあらゆる障がいや病気ならびに人それぞれが持つ個性についても、その多様性が認められている世界になることを私は希求している。


 この世界には好きな人が同性であるというだけで、好きという気持ちを伝えられない性別の不自由を抱えている方が少なからずいる。
さらにそれと同じように、目が見えにくい・耳が聞こえにくい・手足が思うように動かせない・読み書きが苦手などというような、身体や心の不自由を抱えている方もいる。
今この文章を読んでいるあなたや周りの人も、何らかの不自由を抱えているかもしれない。

不自由は普通への障壁となって一律に目の前に立ち塞がる。
周りと同じ普通を追い求め、普通を得ることの難しさに悩み苦しむ。誰が普通や常識を決め、誰がそれらを正しいとしたのだろうか。
いつの時代もそれは力であった。力が普通を決め、普通を基準に当たり前を決め、そしてそれ以外を異端としてきた。

しかし、もう世の中の普通に踊らされる必要はない。
マジョリティであろうとマイノリティであろうと、人にはそれぞれ自分にとっての普通が存在しているのであって、これを他人に決められた『普通』の物差しで人を判断することは、それぞれの単位の換算がされていないため不正解となる。
自分と相手の物差しをよく見比べて、初心に立ち戻って次元解析からやり直した方が良い。


 思想や宗教と同様にして性別や愛も多様化している世界だが、これらのことによって不当な差別を受けることは間違っているのである。
性別・性的指向・国籍・人種・宗教・民族・肌の色・身体的特徴・障がい・病気、これらの単一の要素を知ることによって何が分かって、何の正当性があって差別をしているのだろうか。
生きる上で上位に存在する道徳や倫理またはそれらに基づいて定められた法に反したものや、他者を不当に攻撃または否定して自由や人権を侵害するようなものであれば、それらを認めるべきというのには誤解がある。
非人道的な思想を持ちそれを現実で実行する人や、人を殺めることを正当化した宗教などは当然間違っている。
これらのような基本的人権を侵害するようなものが認められるべき多様性に含まれないのは自明である。


 他人を侮蔑・否定することで形成される自己防衛は、誰でも至極容易に採択できる生存戦略であり一種の処世術であるのかもしれない。これは全ての人に認められてる権利であるが、その自己防衛が過剰になっていないか今一度よく考えてほしい。そして相手もあなたと同じ人間であるということを。その反発はいずれ自分へと帰着するため、あらゆる思考と言葉にはいつでも責任が伴うのである。


 話が少し逸れてしまったが最後に伝えたいことがある。

フィクションとして同性愛を描いた百合作品を愛する者であるならば、今あなたの目の前に広がる現実世界における同性愛を含む、あらゆるものの多様性を認めていく先駆者となっていくべきではないだろうか。

こうして多様性を認め合う先にあるのが真の意味での平和であると思う。

私は百合で世界を平和にすることが実現可能だと強く信じている。

 

 


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